

柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から部屋へ差し込む。
コーヒーメーカーの音が小さく響き、
紗季はゆっくりとカップを手に取った。
机の上には、昨夜のノート。
開いたままのページには、
「私は、愛する力を生きている」と書かれている。
その一文を見つめながら、
紗季は小さく息を吸い込んだ。
「……あの日の私とは、少し違うかもしれない」
以前の自分は、彼の言葉ひとつで一喜一憂していた。
けれど今は、“彼の時間”を尊重しながら、
自分の想いを穏やかに抱きしめている。
鏡の前に立つと、
寝癖を整える指先の動きまで、
どこかやさしいリズムを刻んでいた。
「伝えることを、怖がらない私でいたい」
その言葉がふっと心に浮かぶ。
思えば、怖かったのは「嫌われること」ではなく、
「想いが重くなること」だったのかもしれない。
でも今なら分かる。
優しさは、押しつけではない。
相手を思いやる“余白のある言葉”なら、
ちゃんと届く。
湯気の立つコーヒーを一口飲んで、
紗季は静かに笑った。
「今日は、ほんの少しの勇気を持って過ごしてみよう。」
その小さな決意が、
窓の外の光と一緒に、
新しい一日の始まりを照らしていた。
午後三時、オフィスの空気が少し緩む時間。
紗季は、取引先に送るメールの文面を見つめていた。
“お疲れさまです”“よろしくお願いいたします”
──定型句を並べながらも、
その言葉の“温度”に少し違和感を覚える。
(ちゃんと伝わってるのかな、私の気持ち。)
送信ボタンを押す前に、
一文だけ添えた。
「お忙しい中、いつもありがとうございます。」
それだけで、画面の中の文字が
少しだけ柔らかく見えた。
その瞬間、ふと彼とのやり取りを思い出す。
忙しいときの彼に、
自分はどんな言葉をかけていただろう。
「無理しないでね」
「頑張って」
──でも、どれも“伝えたい温度”とは少し違った。
もしかしたら、
“優しさを伝える”って、
言葉を慎重に選ぶことじゃなくて、
相手の今を想像することなのかもしれない。
ディスプレイの明かりを見つめながら、
紗季は小さく息をついた。
「やっぱり、ちゃんと伝えたいな……」
それは“焦り”ではなく、
“寄り添いたい”という静かな願い。
心の奥で、
次のメッセージへの小さな灯りがともり始めていた。
その夜、紗季は部屋の明かりを落とし、
机の上のスタンドライトだけを点けた。
ノートの上には、今日一日を通して浮かんだ言葉がいくつも並んでいる。
「焦らない」
「軽やかに」
「温かく」
──どれも今の自分を表すキーワード。
ペンを手に取り、新しいページを開く。
上の端に小さく書いた。
「理解したうえで伝えたい言葉」
ゆっくりと息を整えながら、
占い師の声が頭の中に蘇る。
「相手を思うなら、“重くない優しさ”を意識して。」
まず①「彼の状況を想像して一文にまとめる」。
ノートに書く。
「最近、忙しそうだな。」
次に②「自分の気持ちを添える」。
「無理しないでね。」
そして③「トーンを日常の会話に整える」。
「寒くなってきたね。体調崩してない?」
三つの文を並べて読み返すと、
まるで心の温度が言葉に宿っているように感じた。
「……これなら、彼の心を重くしないかもしれない。」
ペンを置いて、静かにノートを閉じる。
すぐに送ろうか迷ったけれど、
今日はあえて“寝かせる”ことにした。
明日の朝、もう一度読み返して、
それでもこの言葉が“優しさ”であると思えたら、送ろう。
その決意を胸に、
紗季はライトを消した。
窓の外では、冬の星が静かに瞬いている。
「おやすみ。……新。」
心の中で小さく呟いたその声は、
言葉にならない想いを静かに照らしていた。
朝の光が、静かにカーテンを透かして部屋に満ちていく。
目を覚ました紗季は、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
昨夜ノートに書いた言葉が、
まるで夢の中でも彼女を包んでいたように感じる。
ゆっくりと起き上がり、
机の上に置いたノートを開く。
昨日の三つの文が、朝の光を受けて淡く輝いている。
「最近、忙しそうだな。」
「無理しないでね。」
「寒くなってきたね。体調崩してない?」
一行一行を指先でなぞりながら、
紗季は目を閉じた。
“彼がこの言葉を読んだとき、
少しでも心がやわらかくなりますように。”
その想いを胸の奥で確かめてから、
スマホを手に取る。
トーク画面を開くと、
最後のメッセージからすでに何日も経っていた。
けれど、もう“間が空いたこと”に焦りはなかった。
この言葉は、
“彼から返事をもらうため”ではなく、
“彼の世界に、少しの安らぎを置いてくるため”のもの。
深呼吸をひとつ。
指先が、ゆっくりと文字を打つ。
「寒くなってきたね。体調崩してない?」
送信ボタンに触れる前、
一瞬だけためらいがよぎる。
けれど、次の瞬間には微笑んでいた。
「これなら、彼の心を重くしない。」
軽く息を吐いて、
“送信”の文字をタップする。
メッセージが画面を滑っていく。
その小さな動きの中に、
これまで積み重ねてきた“理解と信頼”がすべて込められていた。
──そして紗季の朝が、
少しだけ新しい光で満たされていった。
メッセージを送ってから、三日が経った。
仕事に追われながらも、
紗季の心の奥には小さな期待の灯が、
消えずにゆらめいていた。
けれど、それはもう“待つ”というより、
“信じて見守る”に近い穏やかな気持ちだった。
その夜、残業を終えて帰宅した紗季は、
コートを脱ぎながらスマホを机に置いた。
通知の明かりが一瞬、
部屋の暗がりを照らす。
画面には、ひとつの新しいメッセージ。
送り主の名前を見た瞬間、
胸の奥が静かに跳ねた。
新:
「ありがとう。ちょうど徹夜明けでクタクタだった。」
たったそれだけの短い言葉。
でも、その中には確かに“彼の息づかい”があった。
疲れた手でスマホを握る姿、
少し照れくさそうに打った指先が、
目に浮かぶようだった。
紗季の頬に、自然と笑みがこぼれる。
返事が来たことがうれしいのではない。
“ちゃんと届いていた”ことが、うれしかった。
ノートを開いて、ページの端に小さく書く。
「優しさは、声にしなければ届かないときがある。」
その文字の下に、もうひとつ書き添える。
「伝えることは、信じること。」
ペンを置いた瞬間、
部屋の空気が少しだけあたたかく感じた。
“押す恋”ではなく、“寄り添う恋”。
それが、今の自分の歩幅にぴったりだと思えた。
翌朝。
アラームの音で目を覚ますと、
窓の外には淡い朝焼けが広がっていた。
紗季はゆっくりとカーテンを開け、
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
昨日の夜、彼から届いた返信。
短い言葉なのに、
まだその余韻が心の奥で温かく灯っている。
「ありがとう。ちょうど徹夜明けでクタクタだった。」
あの一文を読み返すたび、
“無理しないでね”と伝えた自分の言葉が、
ちゃんと彼の世界に届いていたんだと実感する。
紗季はベランダに出て、
空を見上げながらマグカップを両手で包んだ。
朝の光が頬を照らし、
そのぬくもりが心まで染み込んでいくようだった。
「言葉って、
ほんの少しでも誰かを救うことがあるんだね。」
小さく呟いた声は、
冷たい空気の中にやさしく溶けていった。
以前の自分なら、
返事が遅れるたびに不安を募らせていただろう。
でも今は違う。
彼の忙しさを思い、
自分の心の穏やかさを信じられる。
“待つことも、伝えることも、どちらも愛のかたち。”
その気づきが、
紗季の中で静かに根を張っていた。
遠くで通勤の車の音が聞こえる。
世界が動き出す音の中で、
紗季の心もまた、
穏やかに未来へ向かって動き始めていた。
週明けの朝。
澄んだ空気の中で、紗季はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には、淡い光の帯がビルの隙間を縫うように伸びている。
それを眺めながら、彼女はゆっくりとノートを開いた。
最後に書いたページには、
“優しさを伝えることは信じること”と記されている。
その下に、新しい行をひとつ空けて、ペンを走らせる。
「優しさを伝えることが、私のアプローチ。」
書き終えた文字を見つめながら、
紗季は静かに微笑んだ。
そこにあるのは、もう“片思いの苦しさ”ではなく、
“誰かを想える自分への誇り”だった。
彼からの返信がなくても、
彼の世界がどんな速度で進んでいても、
紗季の心には確かに愛が息づいている。
押さない。
引かない。
ただ、寄り添うように心を差し出す。
それが、今の彼女にとっての
いちばん自然で、あたたかなアプローチ。
ノートを閉じると、
カーテンの向こうから光が差し込み、
部屋全体が柔らかな金色に染まった。
「よし、今日もがんばろう。」
紗季は小さく頷いて、コートを羽織る。
外の世界は冷たいけれど、
胸の中には確かな温もりがあった。
──それは、
“理解して、見守って、信じて、そして伝える”という、
紗季の恋の軌跡が残した光。
新しい朝の始まりとともに、
彼女の心には、次のページをめくる勇気が宿っていた。





コメント