スマホの画面に、青いチェックがひとつ。
「既読」の文字が浮かんでいるのに、返事はない。
ただそれだけのことが、紗季の胸をざわつかせていた。
数週間前までは、仕事のやりとりの合間に小さな雑談があった。
「その提案いいね」
「今度、別の案件でも一緒にやりましょう」
そんな何気ない言葉の中に、紗季はいつも小さな喜びを見つけていた。
けれど最近は、彼──
新(あらた)からのメッセージが明らかに減っていた。
「ありがとう」
「了解です」
そんな短い返信だけで、会話はすぐに終わる。
まるで、丁寧な距離を置かれているように感じる。
“何か、悪いこと言ったかな……”
思い当たる節を探して、過去のやり取りをスクロールする。
でもどこにも、決定的なきっかけは見つからない。
ただ、心だけが勝手に騒ぎ立てていく。
“嫌われたのかもしれない”“もう私に興味がないのかも”
そんな考えが浮かんでは消え、夜の静けさがさらに不安を煽った。
仕事の連絡のつもりで始まったこのやりとり。
けれど、いつの間にか紗季の中では“彼と繋がれる時間”になっていた。
その時間が途切れた今、
まるで一日のリズムを失ったように、何をしても落ち着かない。
デスクの上に置いたスマホを見つめたまま、
紗季は息を吐いた。
小さなため息が、夜気に溶けていく。
翌日の夕方。
仕事帰りの紗季は、会社近くのカフェに立ち寄った。
窓際の席に座り、ラテのカップを両手で包みながら、
ひとり静かにスマホを開く。
タイムラインを何気なくスクロールしていると、
新のSNS投稿が目に入った。
「今週も寝不足…。クライアントの修正ラッシュ中」
写真には、モニターの前で散らかったデスクと、
空になったコーヒーカップ。
深夜に投稿されたその一枚に、
彼の疲れと、ひたむきな仕事ぶりがにじんでいた。
紗季は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「こんな状態なら、連絡できないのも無理ないかもしれない……」
そう思った次の瞬間、
また別の声が心の中で響く。
“でも、前は忙しくても返信してくれた”
“私、もう重いって思われてるのかな”
思考が行ったり来たりして、
ラテの泡が冷めていくのも忘れていた。
ノートを開く。
白いページにペン先を置いたまま、
思いつくままに“あの頃との違い”を書き出していく。
・会話が短くなった
・スタンプだけで終わることが増えた
・仕事の相談がなくなった
ページの半分が埋まったところで、
ふと手が止まる。
ペン先の跡を見つめながら、
紗季は小さく息を吐いた。
「こうやって書くと、全部“私がどう思われているか”ばっかりだね」
声に出すと、少しだけ自嘲の笑みがこぼれる。
“彼の状況”ではなく、“自分の不安”ばかりを数えていたことに気づく。
窓の外では、街のイルミネーションが灯り始めていた。
店内のざわめきの中、
紗季は静かにスマホを伏せ、
自分のノートに手を添えた。
──このままじゃ、何も変わらない。
そう思いながら、心のどこかで「誰かに話を聞いてもらいたい」と願っていた。
夜。
帰宅した紗季は、部屋の明かりをつける前にスマホを手に取った。
ベッドの端に腰を下ろし、ぼんやりと画面を見つめる。
通知は……ない。
ただ、既読のまま止まったメッセージがひとつ、
淡く光っているだけ。
この数日、気づけば何度もその画面を開いては閉じていた。
もういい加減、心が疲れている。
そんなとき、ふと思い出した。
以前、同僚が教えてくれたオンライン占いサイト。
「恋愛で迷ったとき、誰かに整理してもらうだけでも全然違うよ」
その言葉を思い出し、ためらいながらもアプリを開く。
画面に浮かぶ相談フォームに、指を滑らせて文字を打つ。
「最近、好きな人との連絡が減りました。
嫌われたのか、それとも忙しいだけなのか分かりません。
彼の気持ちを知りたいです。」
送信ボタンを押すと、数分後に“鑑定準備中”の表示が現れた。
心臓の鼓動が少しだけ速くなる。
やがて、やわらかな声がイヤホン越しに届いた。

こんばんは、紗季さん。お待たせしましたね
穏やかで包み込むようなトーン。
その声を聞くだけで、少し息がしやすくなる。



連絡が減るとき、相手は“気持ちが離れた”のではなく、
“余裕がなくなった”だけのこともあります



その違いを見抜けるのが、思いやりのある人ですよ
静かな一言が、心に染み込むように響いた。
“余裕がないだけ”
——その言葉を聞いた瞬間、
頭の中の霧が少し晴れたような気がした。
……そうか。嫌われたって決めつけてたのは、私の方だったのかも



ええ。
彼の“今”を想像できるあなたなら、きっと優しい行動ができます
会話の最後、占い師の声が柔らかく笑う。
その温度が、紗季の胸の奥に小さな灯をともした。
鑑定を終えたあと、スマホを置き、
ゆっくりと深呼吸をする。
先ほどまでのざわついた心が、
少しだけ静まり返っていた。
机の上には、昼間カフェで書いたノート。
新しいページを開く。
そこに、占い師の言葉を小さくメモする。
「離れたのではなく、余裕がないだけ」
ペンを置いたとき、
その一文が、
まるで新しい視点の扉を開ける鍵のように見えた。
深夜、部屋は静まり返っていた。
机の上のライトだけが、柔らかくノートを照らしている。
紗季は、昼間の続きのページを開き、
占い師の言葉を思い出しながらペンを取った。
「相手は気持ちが離れたのではなく、余裕がなくなっただけ」
その一文の下に、
彼に“いま必要なもの”を3つ書いてみる。
「集中できる時間」
「安心」
「励ましの言葉」
ペンの先が動くたびに、
心の中の焦りが、少しずつ形を持って静まっていく。
まるで、頭の中の“もや”を文字に置き換えていくようだった。
そしてふと、ペンを止めた。
自分ばかりが与えようとしていたことに気づく。
「じゃあ、私に“いま必要なもの”ってなんだろう」
もう一度ペンを握り、今度は自分の名前を小さく書いてから、
その下に続ける。
「落ち着く時間」
「温かい飲み物」
「信じる心」
書きながら、胸の奥に小さなあたたかさが灯る。
自分を責め続けていた心が、
ようやく“自分にも優しくしていい”と許しを出したようだった。
紅茶を淹れて、ノートの前に戻る。
白い湯気が立ちのぼる中、
紗季は小さく息を整えながらページを見つめる。
「彼が返信できないのは、私を嫌いになったからじゃなくて、
自分のことで精一杯だから——」
その考えが、少しだけ腑に落ちた瞬間だった。
書くことで心がほどけていく。
焦りの中にあった“何もできない”という無力感が、
“待つことも行動のひとつ”に変わっていく。
ノートを閉じると、
部屋の空気がほんの少しやわらいでいた。
時計の針が、日付をまたいだことを告げる。
ベッドの上で、紗季はスマホを手にしていた。
画面の中のトーク欄には、最後に送った短いメッセージが光っている。
「最近忙しそうだね、無理しないでね」
それに対して、返事はまだない。
送ってから三日。
以前なら、その時間が苦しくてたまらなかったはずなのに、
今夜の紗季は少し違っていた。
ノートを見返す。
「彼に必要なもの」
「私に必要なもの」
そこに並ぶ言葉たちが、まるで心のお守りのように感じられた。
「今、彼に必要なのは……たぶん“時間”と“集中”。
私ができるのは、それを尊重すること。」
そうつぶやいて、スマホを伏せる。
通知音が鳴らないようにサイレントモードに切り替えた。
その小さな動作が、
“追いかける恋”から“信じて待つ恋”へと切り替わる瞬間だった。
湯気の立つ紅茶を淹れて、
窓際に腰を下ろす。
ガラス越しに見える街の明かりが、
まるで遠くの星みたいに滲んでいた。
「彼もいま、自分の場所で頑張ってるんだろうな」
声に出すと、不思議と涙がこぼれそうになる。
寂しさと同時に、優しい温度が胸に広がっていく。
“私にできるのは、責めないこと。
急かさないこと。
そして、信じること。”
ノートの最後の行にそう書き足し、
ページをそっと閉じた。
静かな夜だった。
でも、心の中には確かな灯りがひとつ、
ゆっくりとともっていた。
翌朝。
窓の外は、冬の光が差し込んでいた。
出勤の支度をしながら、
紗季は無意識のうちにスマホを手に取る。
通知欄には、ひとつのメッセージ。
差出人の名前を見た瞬間、
心臓がふっと跳ねた。
新:
「デザインの件、修正ありがとう。助かった!」
たったそれだけの文面。
それでも、紗季の胸の奥に温かいものが広がっていった。
返事を読み返しながら、
彼の声や表情が浮かぶ。
疲れた顔で笑っているのかもしれない。
それでも、こうして“ありがとう”と言ってくれる。
その一言に、
言葉以上の意味が込められている気がした。
「……うん、よかった」
自然と笑みがこぼれる。
少し前の自分なら、
「短い」とか「そっけない」と感じていたかもしれない。
でも今は違う。
“忙しい中でも返信してくれた”という事実が、
十分すぎるほど嬉しかった。
会社に向かう電車の中、
窓に映る自分の表情がどこか穏やかだと気づく。
「連絡が減った」ことに怯えるのではなく、
“その一言”に込められた優しさを感じられるようになった。
スマホをポケットにしまい、
窓の外の景色を見つめる。
街が少しずつ明るくなっていくように、
自分の心にも新しい朝が訪れていた。
その夜、紗季は帰宅するとまっすぐ机に向かった。
朝のメッセージを何度も思い返していた。
ほんの一言のやり取り。
けれど、それが今の自分にとっては
何よりも大きな“再接続”の証だった。
ノートを開く。
ページの端には、前夜に書いた言葉たちが並んでいる。
「信じること」
「責めないこと」
「待つこと」
それらを指でなぞりながら、紗季は小さく息を整えた。
「今日は……“理解して寄り添う日”にしよう」
そうつぶやいて、ページの下に小さなハートを描く。
ペン先が紙をなぞるたびに、
自分の中の不安が少しずつ形を変えていくのが分かる。
“アプローチって、押すことじゃない。
理解して寄り添うことなんだ。”
ノートを閉じると、
部屋の中の空気がほんの少し柔らかくなった気がした。
ベランダの外では、風が街の灯を揺らしている。
その光の中に、
彼が頑張っている姿を想像する。
「おつかれさま。今日も一日、よく頑張ったね」
声に出さず、心の中でつぶやく。
それはメッセージではなく、
静かな祈りのようなものだった。
自分の思いを相手に押しつけるのではなく、
“そっと寄り添う”という形で伝えていく。
そのやさしさこそが、
今の紗季にできる、いちばんのアプローチだった。
ページを閉じ、ペンを置く。
机の上に置かれたノートが、
まるで新しい始まりの証のように輝いて見えた。
「彼が返せない夜にも、
私の思いやりは届いている。
それを信じることが、
私のアプローチなんだ。」
紗季は小さく微笑み、
カーテンの向こうの夜空を見上げた。
その瞳には、
まだ遠くにある“希望の灯”が確かに映っていた。















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