

冬と春の境目は、いつも気づかないうちにやって来る。
駅へ向かう道の欄干に、ふいに並ぶ小さな新芽。
冷たい空気の底に、柔らかな匂いがまざっている。
その朝、私は目覚ましの音より早く起きて、窓を開けた。
鼻の奥がつんとするほど澄んだ風。
深く息を吸い込むと、胸の奥に“空きスペース”ができたみたいに軽くなった。
テーブルの上には、一冊のノート。
最初のページのにじんだ涙の跡と、最後のページのまっすぐな線。
「私は、誰かに愛されるためではなく、誰かを想える自分でいたい」
書いた文字は、あの日より少しだけやわらかく見えた。
通勤電車の窓に揺れる景色をぼんやり追っていると、ポン、と小さな通知音。
彼からだった。
「今度の土曜、時間ある? 久しぶりにコート取った」
胸が跳ねて、息が詰まる。
でも、前みたいに手が震えたりはしなかった。
“うれしい”と“こわい”のあいだで揺れる気持ちを、私は両方そのまま抱えた。
「あるよ。行くね」
送信して、スマホをポケットに戻す。
窓の向こう、朝の光はやさしかった。
週末。
コートの砂はまだ冷たく、風は少しだけ強かった。
彼は相変わらず明るい笑顔で、「久しぶり」と手を上げた。
ラケットを握り、軽く体を回す。
最初の球出しはうまくいかなくて、ネットの下に吸い込まれた。
「力が入りすぎてる」
そう言って笑う彼に、私も笑い返す。
二球、三球。
リズムが戻ると、体の奥の歯車が噛み合う音がした。
休憩のベンチで、ぬるくなったスポーツドリンクを飲む。
「仕事、どう?」と聞くと、彼は少しだけ空を見上げて、「相変わらずだよ」と笑った。
言葉は多くないけれど、嘘がない声。
その誠実さを、私は好きだと思った。
“あ、今、好きって思ったな”
心の中でそうつぶやいて、少しだけおかしくなる。
練習のあと、近くの定食屋で遅い昼ごはん。
テーブルに並ぶ湯気と、味噌汁の香り。
「大会のとき、準優勝だったじゃん」
「うん。悔しかったけど、楽しかった」
「前より、楽しそうに打つよね」
その言葉に、胸の奥で小さく灯がともる。
前だったら、“それってどういう意味?”と詰め寄っていたかもしれない。
今は、ただ「ありがとう」と言えた。
店を出ると、風が少し弱まっていた。
駅までの道で、彼がふっと立ち止まる。
「この前、言ってくれたこと……すぐに答え出せなくて、ごめん」
「ううん。わかってる」
彼は続けた。
「今は仕事も落ち着かなくて、正直、誰かの時間をちゃんと受け取る自信がないんだ。でも──」
言葉を探すように、彼は少し笑う。
「君と打つの、好きだよ。楽だし、楽しい」
“楽だし、楽しい”
かつての私なら、その曖昧さに泣いていた。
でも今は、この言葉が嘘じゃないことを知っている。
“楽”でいられる時間は、だれにとっても宝物だ。
それを私が誰かに渡せているなら、うれしいと思った。
「ありがとう」
私が言うと、彼は少し驚いた顔をして、それから安心したように笑った。
電車の窓に映る自分の顔は、少し赤い。
涙は出なかった。
“結果”の名前がつくものは、何ひとつ決まっていない。
でも、私は空っぽじゃない。
朝の光と、ラリーのリズムと、味噌汁の湯気と、
テーブルの上のノート。
日々の小さなものたちが、私の中で静かに繋がっている。
──私は今、ちゃんと生きてる。
家に帰ると、まず窓を開けた。
冷たい空気が頬を撫で、カーテンの端が小さく踊る。
ノートの最初のページを開く。
“返信が来ない夜に、泣いていた私へ”
私はペンを持って、ゆっくりと言葉を書き出した。
あの夜、あなたが泣いてくれてよかった。
泣くほど誰かを想えたあなたが、私は好きだよ。
その痛みの中で、ちゃんと“助けて”を言えた。
電話をかけて、誰かの声を信じて、
初めての場所に一歩踏み出した。
それが、今ここまで連れてきてくれた。
書き終えると、胸の奥でふっと何かが緩んだ。
過去の私に「ありがとう」と言える日が来るなんて、
あの頃は想像もしていなかった。
新しいページをめくる。
真っ白な紙の上に、今度は未来の私宛の手紙を書く。
ねえ、これを読んでいるあなたへ。
もし今、誰かの返信を待っていたとしても、それは“あなたの時間の全て”じゃない。
返信が来ない夜には、湯気の立つスープを作ろう。
好きな音楽をかけて、窓を少しだけ開けて、風を入れよう。
その風の中に、きっとあなたの声が混ざっている。
それをちゃんと聴けたなら、あなたはまた明日、笑える。
書きながら、自然と肩の力が抜けていく。
恋は、誰かの心を思い通りに動かす魔法じゃない。
“自分の心と丁寧に付き合う練習”だ。
それができる人は、たぶん、誰かも大切にできる。
夜、ベランダに出て、空を見上げた。
薄い雲の向こうで、星がいくつか瞬く。
両手を胸の前で合わせるような、目には見えない小さな儀式。
「今日の私、よくやったね」
声に出して、そっと笑う。
風は冷たいのに、首筋のあたりだけ温かい。
──そこに、私の呼吸があるから。
部屋に戻り、ノートの最後に日付を書いた。
長い章がひとつ、今日で終わる。
でも、物語は続く。
明日、新しい章が始まるだけのこと。
ここまで読んでくれたあなたへ。
もしかしたら、あなたにも“返信が来ない夜”があるのかもしれない。
その夜は、世界の音が小さく聞こえる。
不安は大きく、時計の針は遅い。
そんな夜には、ひとつだけ試してみてほしい。
キッチンでお湯を沸かして、湯気の立つスープを作る。
椅子に座って、ゆっくり息を吸って、吐く。
ノートを開いて、今日あった小さないいことを三つ書く。
──それだけ。
大丈夫、ほんの少しでいい。
“あなたの時間”をあなたの手に戻すだけで、
心はちゃんと前に進む。
そして、もし心の声をもう少し深く聴きたい夜が来たなら、
誰かの言葉を借りていい。
占いは、未来を当てる道具じゃなくて、
今のあなたを映す鏡だから。
鏡を見たあとで、歩きたい方向を選ぶのは、いつだってあなた自身だ。
ベッドサイドの小さなライトを消す前に、私はもう一度だけ窓の外を見た。
遠くでタクシーのブレーキが鳴り、どこかの部屋の灯りがひとつ消える。
世界は静かで、私の心も静かだ。
たとえ叶わなくても、私はこの恋に出会えて幸せだった。
だって、私は私を取り戻せたから。
明日、またコートに立とう。
風の音を聴いて、ラケットを振って、
私の時間を、私の手で運んでいく。
そうやって生きていれば、
きっといつか、誰かと肩を並べて笑っている。
その誰かが彼でも、別の人でも、
私は、私のままで微笑んでいるだろう。
おやすみ。
私の中の灯りは、ちゃんとここにある。





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