
「久しぶり。元気?」
そのメッセージは、夜の静けさの中でふいに届いた。
通知の音に胸が跳ね、画面を見るまでのわずかな時間が、永遠みたいに長く感じた。
差出人は、蓮。
見慣れたアイコン。
たった八文字。
でも、指先が少し震えた。
一瞬で過去のいろんな瞬間が蘇る。
カフェで笑った顔。
傘を半分差し出してくれた手。
返事が来なくて泣いた夜。
全部が一度に押し寄せてきて、胸の奥で音を立てた。
“返信、どうしよう。”
打ちかけた言葉を何度も消しては、また打つ。
「元気だよ」
「お疲れさま」
「会えてないね」
──どれも違う気がして、結局、何も送れなかった。
机の上のノートが視界に入った。
昨夜までの記録が並んでいる。
「自分を大事にしたい」
「焦らず、私のタイミングで返そう」
その言葉を指でなぞる。
“焦らなくていい。私のタイミングで。”
深呼吸をして、スマホを伏せた。
返信は、明日にしよう。
今日の私は、ちゃんと自分を選びたい。
夜が明けて、柔らかな光の中でメッセージを打つ。
「元気だよ。蓮は?」
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が静かに波打った。
少し怖い。けれど、それ以上に心が落ち着いていた。
数分後、既読のマークがついた。
でも、返事は来ない。
それでも──
昨日までの私とは違う。
“彼の反応で気持ちを決めない”と、
ノートのページのように心に書き込む。
その日の夜、ページの余白に一行を足した。
「相手の気持ちを知るより、私の想いを伝えられる人になりたい。」
文字を見つめながら、
胸の奥に、ゆるやかで確かな光が灯っていた。
三日後、蓮から返信があった。
「仕事落ち着いた。またご飯でも行かない?」
その一文を見た瞬間、
胸の奥がふわりと浮くような、でも少しだけ重たくなるような、
不思議な感覚がした。
「行こう。」
迷いながらも、指先は自然にそう打っていた。
待ち合わせは、二人がよく行っていたカフェ。
入り口の前に立つと、懐かしい香りがした。
アールグレイと焼きたてのマフィンの匂い。
それだけで胸が少し熱くなる。
扉を開けると、
窓際の席に、彼がいた。
いつも通りの笑顔。
けれど、どこか違う。
彼の髪が少し短くなっていて、
その変化が時間の流れを実感させた。
「久しぶり。」
「うん、元気そうだね。」
短い言葉を交わして、
カップの中の紅茶に視線を落とす。
沈黙が、思っていたよりもやさしかった。
蓮は、仕事の話を少しした。
新しい企画が通ったこと、
最近忙しかったこと。
私は相槌を打ちながら、
彼の横顔をそっと観察していた。
“私の知らない時間を生きてるんだな。”
そんな当たり前のことが、少し切なかった。
「彩花はどうしてた?」
その問いに、一瞬言葉が詰まる。
何もしていないわけじゃない。
でも、“彼のために頑張ってた私”を思い出してしまう。
「うん、いろいろ考えてた。
自分のこととか、仕事のこととか。」
そう言うと、彼は少し驚いたように頷いた。
「そうなんだ。
なんか、少し雰囲気変わったね。」
その一言に、心臓が跳ねた。
褒め言葉なのか、距離の確認なのか。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
会話の合間、彼の手がカップを持ち上げる。
その指先を見ながら思う。
“この人の気持ちは、今どこにあるんだろう。”
以前の私なら、
「私のことどう思ってるの?」と、すぐに答えを求めていたと思う。
でも今日は、
“聞きたい”より“感じたい”が少し勝っていた。
店を出るころ、
夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
「また、近いうちに。」
蓮がそう言って笑う。
私は頷きながら、
心の中で小さく答えた。
──また、私のタイミングで考えよう。
家に帰ると、ノートを開いた。
今日のページに、一行だけ書く。
「彼は笑っていた。でも、私も笑えていた。」
その文字を見つめながら、
“彼の気持ち”の奥に、自分の成長が映っている気がした。
再会の翌日。
仕事を終えて部屋に戻ると、妙な静けさがあった。
嬉しいはずなのに、心が落ち着かない。
彼の笑顔が何度も頭をよぎる。
“また会おう”という言葉も、優しかった。
でもその優しさが、どこか遠く感じた。
スマホを見つめながら、ため息が漏れる。
連絡を待つ時間が、また始まってしまった気がした。
せっかく変われたと思ったのに、
気づけばまた、彼の動きを追っている。
ノートを開く。
昨日のページの最後に書いた「私も笑えていた」。
その下に、小さな文字で書き足す。
「でも、少し怖かった。」
その言葉を見つめていると、
胸の奥から、またあの優しい声が蘇った。
──“彼がどう思うかではなく、あなたがどうしたいか。”
思わずスマホを手に取る。
前回の鑑定アプリの履歴を開く。
迷った末に、同じ占い師を選んだ。
数コールのあと、あの声が聞こえた。

お久しぶりですね。声のトーンが、少し落ち着きましたね。
そうですかね……でも、やっぱり不安です。昨日、彼と会って。
占い師は優しく笑ったような声で言う。



会えたんですね。それは、ちゃんと進んでますよ。
でも、彼が何を考えてるのか、やっぱりわからなくて。



なるほど。今日は“彼の気持ち”を見てみましょうか。
カードの切る音が、受話器越しに小さく響いた。



……ふむ。
彼の中には“気づき”がありますね。
彩花さんとの時間を心地よいと思っている。
でも、踏み出す勇気がまだ足りない。
優しい人ほど、“どうすれば相手を傷つけないか”を考えすぎるものなんです。
私は黙って聞いていた。
“踏み出す勇気が足りない”
──それは、少し前の私と同じ言葉だった。



彼の気持ちは前向きです。
でも、“彩花さんが何を望んでいるか”が、まだ見えていません。
あなたがその答えを言葉にしてあげると、
彼の中でも何かが整うと思いますよ。
……怖いです。
もし気持ちが違っていたら、終わっちゃうかもしれないから。



そう思えるのは、真剣に向き合っている証拠です。
“怖い”は、心が本当の願いを守っているサインですよ。
私は深く息をついた。
この人の言葉は、いつも心の奥に落ちていく。



あなたが彼に伝えたいことは、
“答えを聞くための質問”ではなく、
“想いを届けるための言葉”にしてみてください。
『私は、あなたとどう向き合いたいか』を伝えるだけで十分です。
──“答えを聞く質問”じゃなく、“想いを届ける言葉”。
ノートにメモを取りながら、
私の中で何かがカチリと動いた気がした。
通話を終えたあと、
ページの一番上に新しいタイトルを書く。
「伝える勇気」
その文字を囲むように、丸を描く。
この円の中に、今の自分を入れてみたいと思った。
その週の金曜日、私は蓮にメッセージを送った。
「少し話せる時間ある?」
短い文を打ち、送信ボタンを押した瞬間、
心臓が跳ねた。
でも、前とは違う。
“怖さ”の奥に、“決めた自分”がいた。
「いいよ。明日の夕方、あのカフェで。」
約束の時間。
夕暮れの街は少し冷たくて、
カフェの灯りがやわらかく見えた。
席に着くと、蓮が少し笑って手を振った。
いつも通りの笑顔。
でも今日は、私も笑って返せた。
メニューを眺めながら他愛もない話を少し。
最近の仕事、好きな映画、
彼の話し方は穏やかで、
時折見せる仕草が懐かしかった。
けれど、沈黙の合間に流れる“言えなかった言葉”が、
心の奥でずっと呼吸していた。
カップを置く音が静かに響く。
「……蓮、話したいことがあるの。」
声に出すと、指先が少し震えた。
彼は驚いたように目を上げ、ゆっくり頷いた。
「この前、久しぶりに会って楽しかった。
でも、なんか、時々思うんだ。
私だけ時間が止まってるみたいで。」
蓮は黙って聞いていた。
その沈黙が、逆にやさしかった。
「連絡がこない時も、“きっと忙しいだけ”って思ってた。
でも、本当は怖かったの。
ちゃんと気持ちを聞くのが。
“終わるかもしれない”って思ったら、何も言えなかった。」
言葉を吐き出した瞬間、
胸の奥に溜まっていた何かがゆっくりと溶けていく。
「……彩花、そんなふうに思ってたんだ。」
蓮の声は、静かだった。
「ごめんね。俺、ちゃんとわかってなかった。
でも、会って話せてよかった。」
少し間を置いて、私は続けた。
「私、蓮がどう思ってるのか知りたい。
でもそれ以上に、
私がどうしたいのかを伝えたくて。」
「どうしたいの?」
「ちゃんと、向き合いたい。
彼氏とか恋人とか、そういう言葉じゃなくてもいい。
“私たち”を、もう少し大事にしたい。」
蓮は目を伏せて、ゆっくり息を吸った。
「……俺も、ちゃんと考えたい。
彩花のこと、軽く思ってたわけじゃない。
でも、言葉にするのが怖くて。」
彼の声が少し震えていた。
その震えを見た瞬間、涙が溢れた。
“怖かったのは、私だけじゃなかったんだ。”
蓮がナプキンを差し出して、
少し笑いながら言った。
「泣くなよ。俺、泣きそうになるじゃん。」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
外はもう暗く、
カフェの窓に映る二人の姿が、
少し照れているように見えた。
カフェを出ると、夜風が少し冷たかった。
街の灯りが水たまりに映って、ゆらゆらと揺れている。
並んで歩く距離が、以前よりも近い気がした。
信号待ちの間、蓮がポケットから手を出して、
「送るよ。」と一言。
「大丈夫、近いから。」
そう答えながら、
その声のやわらかさに、胸の奥がふわりと温かくなった。
言葉にできない気持ちが、
ちゃんと届いた気がした。
それは“付き合う”でも“終わる”でもなく、
“わかり合おうとする”という静かな約束。
角を曲がる前、蓮が少しだけ笑った。
「また連絡する。今度は、ちゃんとね。」
「うん。」
短く返した声が、夜の空気に溶けていく。
その瞬間、涙がこぼれそうになった。
でも、今回は泣かなかった。
涙の代わりに、心の奥で何かが確かに光った。
家に帰ると、
部屋の空気が少しやさしく感じた。
机の上のノートを開き、
今夜の出来事を一行ずつ書き出す。
「ちゃんと話せた。」
「怖かったけど、言えてよかった。」
「彼も、少しだけ本音を話してくれた。」
ページの隅に、小さく書く。
「言葉を出せば、世界が動く。」
静かな部屋に、ペンの音だけが響いた。
文字を書くたびに、胸の中に温度が戻ってくる。
ノートの新しいページを開く。
タイトル欄に、ゆっくりとペンを走らせる。
「今できる100のこと」
手の震えもなく、文字はまっすぐに書けた。
昨日までの自分にはなかった力が、
確かに指先に宿っている気がした。
その下に、一行目を書き足す。
「1.自分を信じて行動する。」
ペンを置いて深呼吸をすると、
心の奥で、静かな達成感が広がった。
恋の答えはまだ出ていない。
でも、“ちゃんと伝えた自分”がいる。
それだけで十分だった。
窓の外を見ると、街の灯りが遠くできらめいている。
その光が、これから先の道を照らしているように見えた。
──“彼の気持ち”を探す旅は、
いつの間にか“自分を信じる旅”に変わっていた。
ページを閉じると、
胸の中で小さな音がした。
それは、
次の物語が始まる合図のようだった。










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