ときめきの静かな再生【#3】─私を取り戻す夜─

ときめきの静かな再生【#3】─私を取り戻す夜─

翌朝、美咲はゆっくりと目を開けた。
窓から差し込む光はやわらかくて、
昨日より少しだけ暖かく感じる。

枕元には、
昨夜遅くまで話していた健との通話履歴。
そして、胸の奥には——
まだ名前のついていない気持ちが静かに残っていた。

(……幸せ、だよね)

そう思う。
昨日の電話で感じた“健の気持ち”は、確かなものだった。
会いたい、声を聞きたい、気にかけてくれている。
その全部が、ちゃんと伝わってきた。

なのに。

胸の奥に、ほんのわずかな“ざわり”が生まれていた。

(あれは…なんなんだろう)

不安ではない。
寂しさでもない。

もっと静かで、もっと根っこのほうにある、
自分に向けられた問い のような感覚。

===

出勤の準備をしながら、
美咲は鏡の前で髪を整える。

ふと、昨日の健の言葉が蘇る。

「美咲はさ、そのままでいいよ」

その言葉だけは、なぜか胸に引っかかった。

(……“そのままでいい”って、どういう意味なんだろう)

もちろん悪い意味ではない。
きっと肯定の言葉だ。
愛情のある言葉だ。

でも——
美咲は少しだけ胸がきゅっとなる。

(私、どう見えてるんだろう…
頑張りすぎてるって思われてるのかな
それとも、弱いところは見せてもいいってこと?)

次々に言葉にならない感情が浮かぶが、
どれも核心には触れない。

そのとき、
昨日のラストに浮かんだ問いが
ふわりと形を持ちはじめた。

──私は、自分のことをどう思っているんだろう?

そこに、小さな痛みを伴うような違和感があった。

===

電車に揺られながら、
美咲は窓に映る自分の顔をぼんやり眺めた。

(健くんの気持ちは少し分かってきた。
でも、私の気持ちは……?)

“恋の不安”が落ち着いたあとに残るのは、
ぽっかりとした静かな空洞。

昨日までは気づかなかったその場所が、
今はなぜか鮮明に見える。

(私って…どんなふうに愛されたいんだろう?)

その問いは、逃げ場も誤魔化しもできない、
美咲自身への質問だった。

恋の中で相手を見つめ続けていたその視線が、
ゆっくりと自分自身へと向きを変え始めていた。

通勤電車のガラスに映る自分の瞳が、
少しだけ揺れた。

(……分かりたいな。
健くんの気持ちだけじゃなくて、
“私がどうありたいか”も)

その思いは、不安ではなく、
静かな決意にも似ていた。

胸の奥で、
何かがそっと息をしはじめた——
そんな感覚だった。


午前11時。
職場の空気は、いつも通りの慌ただしさだった。

電話の音、キーボードを叩く音、
コピー機が紙を吐き出すリズム。
美咲はその中で、淡々とメールの処理を続けていた。

(今日も普通……いつも通りの、仕事の日)

けれど、
心のどこかに“昨日”の余韻が残っていた。
健の声、言葉、そして胸の奥でふつふつと育つ問い。

(私、自分のこと…どう思ってるんだろう)

そんなことを考えながら書類を出していると、
背後から声がした。

「美咲さん、このデータ、すごく見やすいです。
助かりました!」

若い後輩・小野寺が笑顔で頭を下げてくる。

「あ、ほんと?よかった。
全然大したことしてないよ」

自然とそう返していた。
自分でも驚くほど、反射的に。

「いえ、本当にいつも助かってます!
美咲さんって、しっかりしてて羨ましいです」

その瞬間、胸の奥が“ちくっ”とした。

(羨ましい…?
私が?)

ちょっとした言葉なのに、
なぜか小さくざわつく。

(私、そんなふうに見えているんだ)

もちろん褒め言葉だ。
嬉しいはずの言葉だ。

なのに、美咲は曖昧に笑ってごまかした。

「ありがとう。でも、私なんて全然だよ」

小野寺は「そんなことないですよ〜!」と笑いながら席に戻っていった。

机に視線を戻した瞬間、
美咲は自分の胸の重さに気づく。

(なんで……褒められたのに、こんなに苦しいんだろう)

頭では“嬉しい”と分かるのに、
心が“うまく受け取れない”。

そのギャップが、
じわりと胸に広がっていく。

===

昼休み。
香里がコーヒー片手に、美咲の席にやってきた。

「ねぇ美咲、今日ちょっと元気ない?大丈夫?」

(あ…見抜かれてる)

美咲は小さく笑い、
何でもないように返した。

「大丈夫だよ。寝不足かも」

「そっか。無理しないでよ?」

香里は心配そうにしながら席を離れていく。

その後ろ姿を見つめながら、
美咲の胸に言葉が落ちてきた。

(……“大丈夫”って、私、言いすぎてない?)

気づけば、
健に対しても、
同僚に対しても、
友人に対しても——

いつも“私は大丈夫”と笑っていた。

(本当は、そんなに強くないのに)

胸の奥のざわつきが、
少しだけ輪郭を持ちはじめる。

(私……
愛されるより、嫌われないように振る舞ってるのかも)

その思いが浮かんだ瞬間、
息が少しだけ詰まった。

心の表面に、ほんのひとしずく。
気づかないふりをしてきた“痛み”が落ちる。

美咲はデスクの上のペンを握りしめた。

(これ……何だろう。
昨日までは感じてなかったのに)

恋の不安が落ち着いたあとに現れた、
もっと深い場所にいる自分。

それと向き合う準備が、
静かに整いつつあることを
美咲はまだ知らない。


その日の夜。
帰宅して部屋の灯りを点けた瞬間、
美咲は小さく息を吐いた。

(今日は、ちょっと疲れたな…)

仕事で大きなトラブルがあったわけじゃない。
重たい相談を受けたわけでもない。
でも、胸の奥にあった“ちくり”が
一日中じわじわと広がっていった。

コートを椅子にかけ、
メイクを落とし、
温かいお茶を淹れてソファに座る。

湯気がゆらゆら揺れて、
その向こう側に自分のぼんやりした顔が透けて見える。

(褒められたのに、苦しかったな…)

あの後輩の言葉が頭の中で繰り返される。
“しっかりしてて羨ましいです”

嬉しいはずなのに、
美咲はなぜか素直に受け取れなかった。

(なんで笑ってごまかしちゃったんだろう)

思い返すと、胸がきゅっとなる。

ゆっくり湯気を見つめていると、
心の奥から静かに何かが浮かび上がってきた。

(私…ほんとは、頑張りすぎてたのかも)

===

気づきたくなかった記憶が
ふっと、胸の奥で再生される。

たとえば、
健が残業続きで疲れていた頃。

「土日はゆっくりしたい」
と彼が言った時、美咲は
本当は会いたかったのに

「うん、だよね。ゆっくりしてね」

と笑って返した自分。

そのあと、
誰もいない部屋で
ぽつんとコンビニのお弁当を食べながら
胸が空っぽになる感覚を覚えていた。

(あの時、私も“会いたい”って言えばよかったんだよね)

でも言えなかった。

嫌われたくなかった。
重いと思われたくなかった。
迷惑だと思われたくなかった。

「良い彼女」でいたかった。

(……そうだ。ずっとそうだった)

気づけば、
付き合った頃からそうだった。

嬉しいことを言われても、
さりげない気遣いをもらっても、
どこかでいつも“返さなくちゃ”と思っていた。

与えられると、
“ありがとう”より先に
“ちゃんとできてるかな”が浮かんでくる。

(そりゃぁ…苦しくもなるよね)

気づくと、胸の奥がじんわり熱くなっていた。

===

美咲は、テーブルの上に置いていたノートに手を伸ばす。

表紙を撫でながら、そっとつぶやいた。

「私、空回りしてたんだな……」

そう言った途端、
不思議と涙がこぼれなかった。

涙ではなく、
静かな納得と、
少しの優しさが広がる。

(好きだから頑張った。
大切だから我慢した。
その気持ちは本物だったよね)

誰かを想ってした行動は、
決して嘘じゃない。

でも、
その途中で“自分”が置き去りになっていた。

嫌われないように、
迷惑をかけないように、
重くならないように、
良い彼女でいられるように——

気づけばずっと
“自分を責める恋” をしていた。

湯気が消え、
カップの表面に夜の部屋の灯りが映る。

美咲はその反射を見つめながら思った。

(もっと…自分に優しくしたいな)

その言葉が自然に出てきたことに、
自分でも驚く。

昨日まではなかった感情。
今日になって、
胸の奥にふわりと根を張り始めた感情。

健の気持ちを理解したことで、
見えてしまった自分の姿。

そこに痛みはあったけれど、
同時に——
癒しの始まりでもある と、美咲は直感していた。


翌日の夜。
仕事終わりの美咲は、
駅前のビルにある占い師の小さな部屋に向かっていた。
ガラス越しの柔らかな灯りが夜道にこぼれている。

ドアを開けると、
ほのかに香るアロマと優しい声。

こんばんは、美咲さん。どうぞ

緊張ではなく、
安心で胸がふわっとする空間。

美咲は席に座り、
ふぅ、と小さく息を吐いた。

(話したいこと、うまく言えるかな…)

占い師は、美咲が言葉を探すのを
急かさずに待ってくれる。

数秒の沈黙のあと、
美咲はゆっくり口を開いた。

健くんの気持ちは…
なんとなく、分かってきた気がするんです

自分でも驚くくらい、
その言葉は自然に出てきた。

でも…それなのに、胸の奥がずっと落ち着かなくて

占い師は頷き、
続きを待つように優しく視線を向ける。

褒められても、うまく受け取れないんです。
“そんなことない”って思ってしまう。
健くんにも、同僚にも。
…私、ずっと“良い彼女”でいようとしてたのかもしれません

口に出した瞬間、
胸の奥にあるしこりが少しだけほどけた気がした。

頑張らないと愛されない気がしてたんだと思います。
迷惑かけちゃダメ、重いって思われたくない。
嫌われちゃいけないって…
ずっと、どこかで思ってて

声は震えていなかった。
涙も出ない。

ただ、本音が静かに口からこぼれていく。

占い師はしばらく黙ってから、
柔らかな声で言葉を置いた。

美咲さん。
ときめきは、消えるものではありませんよ。
ただ、形を変えていくんです

美咲は顔を上げた。

形…ですか?

はい。
恋が“信じられる関係”に進むと、
ドキドキは安心に変わります。
安心は、とても静かな愛です。
でも…その静けさが怖くなるときがあります

心の奥に、そっと触れる声だった。

占い師は続ける。

そしてもうひとつ。
“受け取れない”という気持ちは、
愛が足りないからではなく…
美咲さんが 自分の価値を信じられなくなっているサイン です

その言葉が胸に落ちた瞬間、
美咲は小さく息を呑んだ。

(…そうか。私、信じられなかったんだ)

占い師は優しく微笑んで、

自分を許すと、恋はもっと楽になります。
完璧な彼女じゃなくていいんです。
美咲さんは、そのままで十分愛されていますから

その“そのままで十分”という言葉に、
胸がふわっと温かくなった。

昨日の健の言葉が、
静かに蘇る。

——美咲はさ、そのままでいいよ。

(…繋がった)

健の気持ちと、
自分の揺れと、
今の占い師の言葉。

それらが一本の線になって、美咲の中で結ばれた。

占い師は優しく美咲にペンを差し出した。

美咲さん。
今日は“彼の良いところ”を
5つ書いてみませんか?
そして…その横に、
“美咲さん自身の良いところ”もひとつだけ

まるで“新しい自分を迎えにいく作業”。

美咲はゆっくり頷き、
ノートを開いた。


占い師の部屋を出たあと、
夜風が頬に触れる。

冷たい空気なのに、
胸の奥はどこか温かかった。

(書いてみよう…ちゃんと、向き合ってみたい)

駅に向かう途中、
美咲はノートを抱えるようにして歩く。
まるでそのノートが、
今の自分の整えられつつある心を守ってくれているみたいだった。

===

家に帰り、
お茶を淹れてソファに座る。

ノートを開き、
深く息を吸う。

「……健くんの、良いところ」

少し照れくさくて、
でもなんだか嬉しくもある作業だった。

ペンを持ち、ゆっくり書き始める。

1.約束を守るところ

美咲が以前「この映画みたい」と言ったら、
忙しい中で時間を調整してくれたあの日。

「観に行こうよ」
と何気なく言ってくれた声の優しさ。

(あれ、嬉しかったな…)

2.すぐに怒らないところ

うまくいかない日や、
美咲が落ち込んでいるときでも、
健は声を荒らげることがほとんどない。

静かに、美咲の話を聞いてくれる。

「そっか。大変だったね」と。

その落ち着いた声に
何度救われたことか。

3.私の家族を大切にしてくれるところ

美咲の母の誕生日を覚えていてくれたり、
旅行先で家族のお土産を選んでくれたり。

(本当に…優しい人だよね)

4.干渉しすぎないところ

仕事が忙しいとき、
無理に会おうとしない。
美咲の時間を尊重してくれた。

(これって、信頼してくれてたんだな)

5.一緒にいると落ち着くところ

一緒に歩くときの歩幅。
隣で飲むコーヒーの静かな時間。
言葉がなくても平気な空気。

これこそ“安心という愛”だと思う。

書き終えた瞬間、美咲の胸に
じんわりと静かな温かさが広がった。

(……こんなに、素敵な人と付き合ってるんだ)

ノートを見つめながら、
美咲はそっと微笑んだ。

そのとき、ふと気づく。

(私…こんな人に選ばれて、
付き合ってきたんだよね)

“選ばれた”という言葉が胸の中で反響する。

(ということは……
私も、そんなに悪くないんじゃない?)

自分の良さなんて、
ずっと見えなかった。
見る勇気がなかった。

でも、
健の良いところを書き出すと
その横にある“自分の姿”が
少しずつ輪郭を持ちはじめる。

まるで鏡を覗くように、
健を通して自分が見えてくる。

美咲はゆっくりノートを閉じた。

(これが…
“私も大切にしていい自分”なんだ)

その気づきは、
強い決意ではなく、
ひどく静かな、でも確かな灯だった。

胸の奥で
やっと芽を出した“自己肯定”が
そっと息づいている。


ノートを閉じたあとも、
胸の奥の温かさはしばらく消えなかった。

(健くんって、本当に素敵な人なんだよね)

その言葉が、
ゆっくりと美咲の内側に浸透していく。

そして――
次の瞬間、その温かさが“別の問い”へと繋がった。

(じゃあ……
 そんな健くんに“選ばれた”私は、
 どんな人なんだろう?)

その問いは、
これまで美咲が無意識に避けてきた場所に触れる。

美咲はノートを再び開き、
ページをめくった。

真っ白な紙。
触れただけで緊張しそうなほど、
まっさらなスペース。

(占い師さん……
 “自分の良いところも一つ書いてみて”って、言ってたよね)

ペンを持つ指が、ほんの少し震えた。

他人の良さを書くのは簡単。
でも、自分の良さを書くなんて――
ずっと、怖かった。

(……でも、書いてみたい)

ゆっくりと息を吸い、
震えないように意識しながらペンを走らせる。

1.人の話を真剣に聞けるところ

健だけじゃない。
同僚の悩みも、友達の相談も、
誰かの気持ちに寄り添ってきた自分。

(私……ずっと人のために頑張ってたんだな)

2.仕事に誠実なところ

納期前日の残業も、
こっそりフォローした後輩のミスも、
誰にも言わずにやってきた。

(偉そうにしたかったわけじゃなくて…
 ただ、誰かが困ってるのが放っておけなかっただけ)

3.相手を大切にするところ

健が落ち込んでいたら気づいて声をかけて、
LINEが遅れても責めずに待って、
言葉に出ない変化を察してきた。

(私、ちゃんと“愛せる人”なんだ)

4.頑張り屋であるところ

恋も、仕事も、友達関係も。
不器用でも、いつも必死に守ろうとしてきた。

(健くんが離れていかないようにじゃなくて…
 本当は、私自身が大切にしたかったんだよね)

5.優しいところ

泣いている人を見たら声をかけたくなる。
落ち込んでいる友達に夜中まで電話をした。

優しさを“負担”として見ていた時期もあったけれど――

(これは、私の強さでもある)

ペンを置いた瞬間、
胸がきゅっと締めつけられた。

でも、その痛みは怖さじゃない。

どこかじんわりと、
涙腺に触れるような温かさ。

(私……
 ずっと自分を責めてたんだね)

――良い彼女じゃなきゃ愛されない
――迷惑かけたら嫌われる
――弱音は重いと思われる

そんな“怖れ”のなかで、
いつの間にか自分の良さを捨ててきた。

(でも……違うんだ)

健の良さを数えたからこそ気づけた。

私は、誰かを大切にできる人だった。
そんな私だからこそ、
健は私を選んだ。

その事実が、美咲の胸の奥で
柔らかく、強く光った。

気づけば視界が少し滲んでいた。

泣いているのに苦しくない。
むしろ、胸がふわっと軽くなる。

美咲はそっと笑った。

(私……
ちゃんと恋してきたし、
ちゃんと大切にしてきたよね)

やっと自分に言えた言葉だった。

そしてその言葉は、
“健との未来”だけでなく
“自分自身の未来”を
そっと優しく照らしていた。


翌日の夜。
健から「仕事終わったよ」とメッセージが届いた。

その文字を見た瞬間、
美咲の胸はふわりと温かくなる。

(……話したいな。今日はちゃんと話せる気がする)

いつもなら、
“迷惑じゃないかな”
“重いって思われないかな”
という不安が胸をよぎっていた。

でも今日は違った。

ノートに書いた、“自分の良いところ”。
あのページが、心の奥に静かに灯っている。

“私は、誰かを大切にできる人”
“私は、恋をちゃんと大切にしてきた人”

その感覚が、美咲をそっと支えていた。

美咲は深呼吸をひとつして、返信する。

“おかえり。今日、少し話せる?”

数分後、通話の着信が鳴った。

「美咲? どうしたの、声、大丈夫?」

健の声を聞いた瞬間、
美咲は安心で胸がゆるむ。

「あのね…ちょっとだけ、聞いてほしいことがあって」

「うん、なんでも言って」

健の言い方はいつもと同じで、
優しくて、急かさなくて、
ただ“ここにいるよ”と伝えてくれる。

(あぁ、やっぱり…この人が好きなんだな)

美咲はひとつうなずいて、言葉を探しながら話し始めた。

「最近ね……
私、自分の気持ちと向き合ってたの」

「うん」

「健くんの気持ちは、ちゃんと伝わってきてるよ。
それに気づけて、すごく安心したの」

電話越し、健が小さく息をのむ。

「でもね……
私、自分のことをあまり好きじゃなかったみたい」

「え……?」

驚きが伝わってくる。
でも美咲は、もう怖くなかった。

「褒められても受け取れなかったし、
いつも“ちゃんとしなきゃ”って思ってて。
頑張らないと愛されないって…
どこかで思い込んでたんだと思う」

健はしばらく黙っていた。
美咲にとって、それは不安ではなく
“考えてくれてる沈黙”だった。

やがて、健がゆっくり話し始める。

「美咲が……そんなふうに思ってたなんて、気づかなかったよ。
でも…無理してたなら、ごめん」

その声には、責めでも不安でもない、
ただ美咲を大切にする気持ちがにじんでいた。

美咲は小さく首を振る。

「違うの。
健くんのせいじゃないよ。
私が勝手に“良い彼女でいなきゃ”って
頑張りすぎてただけだから」

少し笑いながら、
静かに言葉を続ける。

「でもね……
昨日、ノートに書き出してみたら……
私、ちゃんと頑張ってる自分のこと、
少しだけ好きになれた気がしたの」

健は、息を飲んだようだった。

電話の向こうの気配が変わり、
声がほんの少し掠れる。

「……美咲。
俺さ、美咲のそういうところ……
本当に、好きだよ」

その言葉は、
これまで何度聞いても不安の影がついてきた言葉だった。

でも今日は違う。

美咲の胸にまっすぐ届いて、
柔らかく光を広げる。

「……ありがとう」

涙が出るわけじゃない。
悲しいわけでもない。

ただ、
“受け取れる状態”になっただけ。

それが、ものすごく大きな変化だった。

健は続ける。

「美咲はさ、そのままでいいよ。
俺は……美咲が笑ってくれるのが嬉しいし、
ちょっと弱いところを見せてくれたら……
もっと近くにいられる気がする」

(弱さを見せてもいい……?)

その言葉は、
これまでのどんな優しさとも違う響きで胸に届いた。

「うん……
私も、少しずつでも
自分の気持ちを大事にしたいなって思ってる」

健は小さく笑い、

「その美咲が一番好きだよ」

美咲も笑った。

「ありがとう。
ちゃんと……受け取れたよ」

その言葉を、
初めて“嘘なく”言えた気がした。

胸の中に、
小さな自信が灯った夜だった。


電話を切ったあと、
部屋は静かだった。

でも、不思議なほど寂しくなかった。

美咲はソファに背を預け、
胸に手を置いたまま、ゆっくりと目を閉じる。

(ちゃんと……受け取れたな)

健の「そのままでいいよ」。
健の「美咲のそういうところが好きだよ」。
そして、
弱さを見せてもいいと言ってくれたあの声。

今までは受け取るたびに揺れて、
疑って、
心のどこかで“私なんか”が顔を出していた。

でも今日は違った。

まっすぐ届いて、
心の中に置ける場所があった。

(私、変わったんだ……)

その実感が、
胸の奥にふわっと広がる。

===

しばらくして、美咲はそっとノートを開いた。

“彼の良いところ”
“自分の良いところ”

そのページを見つめていると、
自然に次のページが気になった。

(この先……私、どうしたいんだろう)

健との未来を“考えたい”という気持ちが
静かに芽を出している。

結婚のタイミング。
働き方。
住みたい場所。
休日の過ごし方。

(……話してみたいな)

昨日までの美咲なら
「重いと思われるかな」
「まだ早いかな」
「嫌がられたらどうしよう」
そんな不安が真っ先に浮かんでいた。

けれど今は違う。

美咲が描きたい未来は、
健に押しつけたい未来ではなく、
“ふたりで一緒に描いていきたい未来”
だと気づいたから。

(私も……ちゃんと未来を考えていいんだよね)

そう思えた瞬間、
胸の奥に小さな灯りがともる。

まるで、
夜の深呼吸みたいに静かで、
でも確かに前へと進むための熱を持った灯り。

===

そのまま、
ノートにゆっくりとペンを走らせた。

健と一緒にどんな生活がしたいか

どんなふたりになりたいか

どんな形の安心をつくりたいか

一文、一文がとても静か。
でも、書くたびに心が柔らかくなる。

(こんなふうに未来を考えるなんて……久しぶりだな)

ノートを閉じると、
胸の奥に少しだけ勇気が生まれていた。

未来が怖いんじゃなくて、
未来を描く自信がなかっただけだった。

(健くんとなら……ゆっくり話せる気がする)

その“ゆっくり”が、
何よりも美咲らしかった。

焦らない。
背伸びしない。
無理をしない。

自分の歩幅で、
彼の隣に立っていく未来。

その輪郭が、
夜の静けさの中でそっと浮かび上がっていった。

窓の外の街灯が揺れる。
心のなかの灯りも、それに呼応するように揺れた。

(次は……“私たちの未来”と向き合う番だね)

そう思った瞬間——
美咲はほんの少しだけ、
胸を張れた気がした。


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