

春の風が心地よい午後、
千紗はカフェのテラス席で、打ち合わせの資料を閉じた。
同僚と話していた新しい顧客向けセミナーの企画──
テーマは「これからの暮らしを自分で描く」。
かつて自分が占いにすがっていた頃、
まさか“描く側”になるとは思ってもみなかった。
テーブルに置いたアイスコーヒーの氷が、静かに溶けていく。
それを眺めながら、千紗はスマホの画面を開いた。
SNSの通知欄には、セミナー参加者からの感想コメント。
「背中を押してもらえました」「もっと前を向きたくなりました」
そんな言葉たちが並ぶたび、胸の奥が温かくなる。
──誰かの言葉で救われることもある。
でも、本当に人を変えるのは、自分で動いた経験だけ。
それをようやく理解できた気がした。
ふと、風がページをめくるように記憶を運んでくる。
“頑張ってるね”と送られてきたあのメッセージ。
“もう一度やり直せないかな”と問うた夜。
“尊敬を軸に”と教えてくれた声。
それらの言葉が、まるで遠い季節の風景のように浮かんでは消える。
もう痛みはない。
でも、その記憶がなければ、今の私はいなかった。
その事実だけは、穏やかに胸に残っている。
カフェを出て、街を歩く。
ビルの隙間から覗く空は淡く霞んでいて、
通りの花壇には新しい芽が顔を出していた。
「この季節、好きかも。」
つぶやいた声が、風に乗って消えていく。
その足取りは軽く、
まるで過去と現在をひとつの時間として歩いているようだった。
帰り道、街の明かりがひとつ、またひとつ灯っていく。
信号待ちのあいだ、千紗はふとバッグの中から小さなノートを取り出した。
角が少し擦れたその表紙には、「理想の未来」と書かれている。
あの夜、泣きながら書いた言葉たちが、今も薄いインクの跡を残していた。
ページをめくると、ぎこちない文字で並んだ箇条書き。
“沈黙が怖くない関係”“お互いを尊重できる関係”
あの頃は、それを書けば彼とやり直せるような気がしていた。
けれど今見ると、その言葉はもう彼だけのものではなかった。
“私がどう生きたいか”を見つけるための始まりだったのだとわかる。
──あの頃の私へ。
あなたが泣いた夜も、立ち止まった朝も、
全部、今の私を形づくる材料になってるよ。
もしあのとき、痛みをごまかさずに向き合わなかったら、
この手で誰かを励ますことなんて、きっとできなかった。
“頑張ってるね”の一言を待ち続けていた私が、
今は“あなたなら大丈夫”と伝える側にいる。
それがどれほど尊いことか、ようやく気づけた。
ノートを閉じると、風が頬を撫でた。
見上げた空には、まだ明るさの残る月。
その光が、過去と今をやさしくつないでくれる気がした。
「ありがとう、あの頃の私。」
誰に聞かせるでもなく、そっとつぶやく。
その瞬間、胸の奥で小さく何かがほどけた。
それは“後悔”ではなく、“感謝”に変わった過去の記憶だった。
夜、帰宅してからしばらくの間、
千紗は机の上のノートを眺めていた。
“理想の未来”“目標達成ノート”“尊敬できるところ”
どのページにも、あの頃の私が生きていた。
どれも真剣で、必死で、少し空回りしている。
でも、どの文字も消したくはなかった。
過去のどんな瞬間も、
いまの私をここまで連れてきてくれたのだから。
ふと、ページの端にこぼれたインクの跡をなぞる。
涙でにじんだのか、焦って走らせた文字なのか──
思い出せないけれど、
どちらでもいいと思えた。
“彼を好きだった自分”を責めなくなってから、
ようやく本当の意味で前を向けるようになった。
失恋を乗り越えるというより、
“愛していた時間を受け入れる”という感覚に近い。
あの頃の私は、誰かを愛することで自分を確かめようとしていた。
今の私は、自分を信じることで誰かを想えるようになった。
その違いに気づけた瞬間、
胸の奥の小さな痛みがすっと溶けていった。
「……もう、いいんだね。」
そう呟くと、不思議と涙は出なかった。
後悔でも未練でもなく、
“あのときの私も頑張っていた”という優しさだけが残った。
窓の外、夜風がゆっくりとカーテンを揺らす。
その音が、まるで誰かに「大丈夫」と囁かれているように聞こえた。
千紗はノートを閉じ、深く息を吸った。
あの頃の痛みも、今の穏やかさも、
すべてひとつの物語の中にある。
それを受け入れた瞬間、
ようやく“過去と未来が同じ場所に立てた”気がした。
朝の光がカーテン越しに差し込む。
千紗は湯を沸かしながら、ノートと手帳をテーブルに並べた。
一杯のコーヒーの香りが部屋に広がると、
今日がまた新しい一日として始まる。
カップを片手にノートを開く。
ページの端には、過去の自分が書いた言葉がいくつも並んでいた。
“理想の関係”“尊敬できる人”“泣かずに一日を終える”
そのどれもが懸命で、少し幼くて、
でも確かに、未来へ進もうとする意志の跡だった。
ページをめくると、空白のページが現れる。
そこに新しいタイトルを書く。
「これからの夢」
──愛した過去が、私の未来を形づくる。
過去を忘れるのではなく、糧にすること。
未来へ繋げられるかどうかは、私次第。
その言葉を、まるで祈りのように書き記した。
ペン先が紙を走るたびに、
胸の奥に静かな力が生まれていくのを感じる。
時計の針が午前九時を指す。
カップの中のコーヒーはすでに冷めていたけれど、
心の中には、確かに温もりが残っていた。
窓辺に目を向けると、
水耕栽培のバジルがまた新しい芽を出していた。
その小さな葉が、光を受けて淡く揺れる。
「今年の夏は、植え替えてみようかな。」
小さく呟く。
それは、誰かに聞かせる言葉ではなく、
自分への約束のようだった。
机の上のノートを閉じて、千紗は立ち上がる。
今日も、目標達成ノートに一文を書こう。
──“未来を信じられた”。
その一文が、
これまでの全てのページを優しく照らしている気がした。





コメント