

朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより少し明るく感じる。
テーブルの上には、昨日届いた封筒が置かれていた。
「FP試験結果通知 在中」と印字された封を、
まだ開けていなかったことを思い出す。
深呼吸をして、そっと切り開く。
「合格」の文字を見た瞬間、喉の奥で小さく息が詰まった。
嬉しさよりも先に浮かんだのは、
──彼に伝えたい、という気持ちだった。
スマホを手に取って、しばらく画面を見つめる。
「合格したよ」
そう打っては消し、
「頑張ったよ」
と書いてみて、また消す。
結局、そのまま画面を閉じた。
昼過ぎ、気づけば街に出ていた。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、
“なんだか久しぶりにちゃんとしてる”と少し笑う。
お気に入りのワンピースに袖を通し、髪も丁寧に整えた。
翌日、職場で資格手当の申請書を提出した。
その話がきっと、彼の耳にも届いたのだろう。
数日後、メッセージが届いた。
「おめでとう。久しぶりに食事でもどう?」
その短い一文に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
当日。
予約したカフェの窓際席。
季節の花が飾られたテーブルの上で、
手のひらの汗が乾かない。
“落ち着いて、普通に話せばいい”
そう自分に言い聞かせながら、
メニューを見ても内容が頭に入ってこない。
扉が開き、彼が入ってくる。
変わらない笑顔、少し日焼けした肌。
その瞬間、半年分の空白が一気に埋まったような錯覚に包まれる。
「合格、おめでとう。」
その声に、心臓が少しだけ跳ねた。
“ありがとう”と返す声が、わずかに震えていた。
夜の帰り道。
カフェを出てからの道のりを、千紗はほとんど覚えていなかった。
彼と並んで歩いた時間は、たった一時間。
でも、その一時間の中に、半年分の期待と不安を詰め込みすぎていた。
「合格、おめでとう。」
そう言ってくれたときの彼の笑顔は、やっぱり優しかった。
けれど、その優しさの奥に、もう恋の温度はなかった。
食事の終わりに、勇気を出して切り出した。
「ねえ、もう一度……私たち、やり直すことはできないのかな。」
一瞬、彼の手が止まった。
フォークの先が皿の縁に触れ、かすかな音が響く。
「うーん、今はそういう気持ちにはなれないかな。」
彼はそう言って、穏やかに微笑んだ。
まるで、取引を終えた後に“お疲れさま”と声を掛けるような、
やさしいけれど、どこか遠い微笑みだった。
帰宅後、靴を脱ぐ音がやけに響いた。
部屋の明かりが眩しく感じて、すぐに一段階落とす。
コートを椅子にかけたまま、スマホを手に取る。
気づけば、指が占いアプリを開いていた。

こんばんは、千紗さん。
受話口の向こうから、落ち着いた声が聞こえた。
……彼に会いました。食事に。



そうでしたか。いかがでしたか?
楽しかったです。でも……彼の気持ちは、もう前に進んでました。
静かな間。
その沈黙の中に、言葉よりも多くの意味があった。



彼は、別れたときに気持ちを清算していたようです。
だから、今すぐに心が動くことは難しいでしょう。
千紗は、カーテンの隙間から覗く夜空を見上げた。
淡い星の光が、一点だけ瞬いている。
……やっぱり、もう無理なんですか?



無理ということではありません。
ただ、あなたが今抱いている想いは、
“恋人としての彼”へのものではないかもしれません。
言葉の意味をすぐには掴めなかった。
けれど、その一文が心のどこかに刺さる。



あなたが彼を尊敬している気持ちは、とても素敵です。
人として敬意を持てる相手は、そう多くはありません。
──もし今後も彼と関わるなら、
その“尊敬”を軸に関係を再構築してみてください。
尊敬。
その言葉が、胸の中で静かに響いた。
恋と違って、燃え上がることはない。
でも、消えることもない。
……尊敬、ですか。



はい。恋の終わりが必ずしも関係の終わりではありません。
通話を終えると、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
テーブルの上に置いたノートが、月明かりを受けて淡く光っていた。
夜の部屋は静かだった。
湯気の消えかけたマグカップをテーブルに置き、千紗はノートを開いた。
“彼のどんなところを尊敬しているのか、書き出してみてください”
占い師の言葉が、まだ胸の奥で響いている。
ペンを握る指先が、少しだけ震えていた。
恋が終わったと頭ではわかっていても、
心はまだどこかで“終わらせたくない”と抵抗している。
「……尊敬、か。」
呟きながら、ページの一行目にゆっくりと文字を書いた。
「人の話を最後まで聞くところ」
思い出したのは、あの日の会議室。
新人が緊張で言葉に詰まってしまったとき、
彼だけが焦らず、静かに「大丈夫、続けて」と言った。
その声に救われた新人の顔を、今でも覚えている。
──あの優しさは、恋愛とは関係なく、本当に人として素敵だと思う。
「努力をちゃんと見てくれるところ」
営業成績でうまくいかずに落ち込んでいた頃、
誰も気づいていなかった小さな改善点を、
彼だけが「ここ、前より良くなったね」と言ってくれた。
数字ではなく“過程”を見てくれる人。
その一言で、もう少し頑張ろうと思えた。
「人の考えを押しつけないところ」
意見がぶつかった日もあった。
私が強く主張した時、彼は笑って「その考えもいいね」と言ってくれた。
“でも、もう少し別の見方もできるかも”
あの言葉に、救われた自分がいた。
自分を否定されずに導かれる心地よさを、
私は彼から初めて教わったのかもしれない。
ペン先が止まり、しばらくページを見つめた。
書き出した三行の文字が、
恋ではなく“尊敬”の輪郭を浮かび上がらせていく。
その瞬間、胸の奥にふっと風が吹いたような気がした。
痛みではなく、静かな空気の流れ。
ようやく、恋と尊敬の境目を見分けられた気がした。
「……ありがとう。」
小さく呟く。
その声は、彼に向けたものでもあり、
この半年間、もがきながら前に進んできた自分に向けたものでもあった。
ノートを閉じると、ページの間に少しだけインクの香りが残った。
ペンを置いて、深呼吸をひとつ。
カーテンの隙間から月明かりが差し込み、
机の上のノートをやわらかく照らしている。
もう、涙は出なかった。
書き終えた言葉たちは、
恋を手放すための儀式であり、
自分を取り戻すための祈りのようだった。
「これでいい。」
声に出すと、不思議と心が軽くなった。
明日になればまた、目標達成ノートに
“今日も自分を見つめられた”と書けるだろう。
その一文があれば、それでいい。
夜風が少しだけカーテンを揺らした。
ページの端がそよぎ、微かな音を立てる。
その音はまるで、
「大丈夫」と言われているように聞こえた。
FP試験の合格証が届いてから、一週間が経った。
机の上の封筒には、もう触れることもなくなった。
報告のために職場へ顔を出すと、
周囲からの「おめでとう!」の声が温かく響いた。
その中に、彼の姿もあった。
目が合った瞬間、微笑んで「よく頑張ったね」と言ってくれた。
その一言に胸が揺れたけれど、
前のような期待はもう湧いてこなかった。
──その言葉が“恋の続きを約束するものではない”と、
ようやく理解できたから。
帰り道、千紗は小さく息を吐いた。
空はまだ冬の気配を残していて、
街路樹の枝が淡い光を受けて揺れていた。
それを見ながら、
心の中でひとつのページを閉じる音がした。
家に帰ると、
テーブルの上に開きっぱなしのノートがあった。
昨夜書いた「尊敬できるところ」のページを見つめながら、
ペンを手に取る。
新しいページの上に、静かに文字を書く。
「彼への恋心を手放す」
その下に、少し間をあけて続ける。
「でも、尊敬の気持ちは残しておきたい」
文字を書きながら、不思議と涙は出なかった。
ただ胸の奥に、淡い光がともるような温かさがあった。
「恋は終わっても、感謝は残る。」
その言葉が、自然と浮かんだ。
夜、日記帳を新しく開いた。
タイトルは“これからの私”。
一行目にこう書いた。
「過去を悔やむより、今の自分を信じていこう。」
ペンのインクが乾くまでの間、
窓の外を吹く風がカーテンを揺らした。
その音が、
まるで“よくやったね”と囁くように聞こえた。
ノートの横には、いつもの“目標達成ノート”。
そこに今日の一文を書き足す。
「恋に区切りをつけられた。」
「尊敬を、前に進む力に変えられた。」
書き終えると、心が静かに整っていく。
まるで、長い旅の終点で
ようやく荷物を下ろしたような感覚だった。
ふと窓辺を見ると、
水耕栽培のバジルが、小さな花をつけていた。
初めて見たその白い花は、
まるで新しい季節の訪れを告げるようだった。
「……そっか。」
千紗は小さく笑った。
恋が終わったことは、
自分が変われた証でもある。
もう、彼に“頑張ってるね”と言ってもらわなくてもいい。
今は、自分でそう言えるから。
「おつかれさま、私。」
その一言を残して、
照明を落とした。
ノートの白が、
月明かりに照らされて静かに光っていた。









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