

窓辺の水耕栽培で育てているバジルの根が、透明な水に揺れていた。
千紗はガラス瓶の水を交換しながら、
「そろそろ植え替え時かもね」と小さく呟いた。
休日の午前。
部屋には柔らかな光が差し込んでいる。
掃除を終えたばかりの机の上には、
湯気の立つコーヒーと新しいノート。
そのすぐ隣に、届いたばかりの段ボール箱。
FP講座の教材一式が入っていた。
封を開けると、インクと紙の匂いがふわりと広がる。
分厚いテキストを取り出し、
カバーをめくる手のひらに少し汗が滲んだ。
“何かを始める”という感覚は、
いつぶりだっただろう。
机を整え、椅子を引き、深呼吸をひとつ。
蛍光ペンのキャップを外し、
ページの余白に「ここから」と書き込む。
静かな部屋。
時計の秒針が、いつもよりゆっくりと進んでいる気がした。
その音に耳を傾けながら、
千紗はそっとスマホを手に取る。
SNSの通知がひとつ。
何気なく開いた画面に、
彼のアイコンがふと現れた。
投稿された写真は、職場の飲み会の風景。
笑っている。その自然な表情に、胸が揺れた。
気づけばメッセージ画面を開いていた。
指先が迷いながらも、文字を打ち込む。
「FPの勉強、始めたんだ。」
送信ボタンを押したあと、
コーヒーの湯気がわずかに揺れた。
カップを持つ手が、少し震えている。
数分後、スマホが光る。
“頑張ってるね。”
たった五文字。
それだけで、胸の奥に灯がともる。
まるで、長い冬のあとに差し込む朝日みたいに。
その温度に酔うように、もう一度メッセージを打った。
「もし合格できたら、食事でもどう?」
送信。
短い沈黙。
そして、届いた一文。
“うーん、それは……”
笑顔が崩れるまでに、少し時間がかかった。
「……そっか。」
呟いた声が、湯気と一緒に消えていく。
机の上のテキストが、急に遠く感じた。
頑張る理由が揺らぐ。
だけど、コーヒーの香りだけは、
静かに、優しく、そこに残っていた。
夜の部屋に、静かなページをめくる音だけが響いていた。
FP講座のテキストを前にしても、
心はどこか遠くにあった。
“頑張ってるね”
あの言葉が、何度も頭の中で反芻される。
ページを開いても、文字がぼやけていく。
──私は、何のために頑張っているんだろう。
千紗はペンを置き、スマホを手に取った。
いつの間にか、占いアプリのアイコンをタップしていた。
発信音の後、あの優しい声が耳に届く。

こんばんは、千紗さん。どうされましたか?
……勉強が、うまく進まなくて。
声に出した瞬間、自分の悩みが思ったよりも小さく聞こえた。
FPの資格を取ろうと思って、講座を始めたんです。
でも、彼に“頑張ってるね”って言われたら、
それだけで一日中、気持ちが揺れてしまって……。
占い師は少し息を吸い、静かな間を置いた。
その“間”が、千紗にはやけに長く感じられた。



……千紗さん、ひとつお聞きしてもいいですか?
はい。



その資格、彼のために取るのですか?
空気が止まった。
目の前のページの文字が、白く滲んで見えた。
……たぶん、そうかもしれません。
自分のため、って言いたいけど……
“頑張ってるね”って言われたくて始めたのかもしれないです。



そう気づけたのは、とても大きな一歩ですよ。
占い師の声が、静かに続く。



あなた自身の理想の未来を取り戻すために、
頑張れるようになる日はきっと来ます。
そのとき、同じ“頑張ってるね”でも、
受け取り方がきっと違って感じられるはずです。
短い沈黙のあと、通話が切れた。
部屋の中が、急に静かになる。
時計の秒針の音が、やけに鮮明に響いた。
机の上のノートを見つめながら、
千紗は深く息を吐いた。
──誰のために、資格を取るんだろう。
──“違う形で答えてくれる”って、どういう意味だったんだろう。
思考がゆっくりと沈み、
言葉だけが水面に残るような感覚。
彼のためでも、誰かのためでもなく、
“自分の理想の未来”という言葉が、
ほんの少しだけ胸の奥で光を放った。
その光はまだ小さく、掴めるほどの形をしていない。
けれど、確かにそこにあった。
夜が更けても、部屋の明かりは落とさなかった。
テキストを閉じ、千紗は深く息を吐いた。
──誰のために頑張ってるんだろう。
さっきの占い師の言葉が、
ページの隙間からこぼれ落ちるように何度も蘇る。
勉強を始めたときの気持ちを思い返す。
“成長したね”と言われたあの日。
その言葉を胸に、がむしゃらに前へ進もうとしていた。
でも、あの言葉を“ご褒美”みたいに感じていたのかもしれない。
机の隅に置いたノートを開く。
“理想の未来”と書かれたページの隣に、
新しいタイトルを書き加える。
「目標達成ノート」
資格勉強を始めてから、
どれだけ進めたかを毎日記録してみようと思った。
やることを書き出して、終えたらチェックを入れる。
一つずつ、積み重ねを“見える化”していく。
“努力を目に見える形にする”
それはきっと、誰にでもできる小さな魔法だ。
ページの一番上にこう書いた。
「今日できたこと」
最初の行には、
“問題集を1章進めた”
“早起きできた”
──そして、
“泣かずに一日を終えた”
書きながら、少し笑った。
きっと彼が見たら笑うだろう。
でも、このノートは彼に見せるためじゃない。
……たぶん。
ペン先が止まる。
曖昧なその“たぶん”が、
まだ胸の奥に居座っている。
それでもページを閉じると、
どこかすっきりとした気持ちになれた。
文字にした分だけ、
心の中が整理されていくような気がした。
窓の外、夜風がカーテンを揺らす。
ノートの上の文字がその風にかすかに震えた。
──“誰のために”はまだ答えが出ない。
でも、“今日も頑張った自分”をちゃんと認めたい。
千紗はペンを置き、
「おつかれさま」と小さく呟いた。
その声が、静かな部屋に溶けていく。
自分を励ますように、
まだ小さな灯りが、心の奥で揺れていた。
夜風が少し冷たくなってきた。
ベランダの小さな鉢植えを見に行くと、
窓辺の水耕栽培のバジルが、静かに揺れていた。
新しい芽がひとつ伸びている。
小さな成長なのに、なぜだか胸の奥が温かくなる。
部屋に戻って、ノートを開いた。
“目標達成ノート”の1ページ目。
そこには、さっき書いた“泣かずに一日を終えた”の文字。
その言葉を見て、
──ああ、私、ちゃんと生きてるんだな。
そんな実感が、少しだけ心に広がった。
机の端に置いてあるスマホが、
画面を下にしたまま静かに光った気がして、
思わず手を伸ばしかけたけれど、
すぐにやめた。
──どうせ、彼じゃない。
そう分かっていても、
反射的に手が動く自分が、まだどこかにいる。
「頑張ってるね。」
たった一言なのに、
あの言葉を胸の支えにしてきた。
でも、それだけで生きていけるほど
私は単純じゃない。
目を閉じて、深呼吸をする。
空気の冷たさが、頭の中を少しずつ澄ませていく。
──誰かに認めてもらうことより、
自分で“頑張ってる”と感じられる瞬間を、
もっと増やしていきたい。
ノートの次のページに、
「明日の目標」と書いた。
- 早起きする
- テキスト1章
- 夜、泣かない
どれも小さなことばかり。
でも、そのどれもが、
明日の自分を少しだけ前に進ませてくれる気がした。
ページを閉じると、
心の中で“静かな約束”が結ばれていくようだった。
「もう少しだけ、自分のことを信じてみよう。」
そう呟いて、照明を落とす。
暗闇の中で、
カーテン越しの月明かりがノートを照らしていた。
その白い光は、
まだ見えない未来へ続く道のように
静かに、まっすぐ伸びていた。









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