千紗は、帰りの電車の中でメールの下書きを整理していた。
新しい保険の提案書もまとまり、数字も悪くない。
周囲のざわめきやアナウンスが遠くに聞こえるほど、
今日も“仕事の自分”はうまく動いていた。
吊革を握る手の中で、スマホがかすかに震えた気がして、
思わず画面を見た。
……通知はなかった。
自分でも苦笑する。
「また勘違い。」
けれど、反射的に確認してしまうのは、もう癖みたいなものだ。
最寄り駅に着くと、冷たい夜風が頬を撫でた。
街灯の光が路面に長く伸びて、
その明るさが少し遠く感じた。
以前は、この時間に「気をつけて帰ってね」と
悠真からメッセージが届いていた。
たったそれだけの言葉でも、
心のどこかに灯りがともるような気がしていた。
今は、あの光がない。
日常の輪郭は変わらないのに、
どこかひとつの色だけ抜け落ちたみたいに感じる。
部屋に戻り、コートを掛ける。
ダイニングのテーブルには、開きかけのノートと手帳が置かれていた。
最後に予定を書き込んだのは、半年前の春。
「○○さん送別会」の文字の下に、空白が続いている。
ページをめくるたびに、
その空白が“止まってしまった時間”のように見えた。
誰かと会う予定を立てることが、
いつの間にか怖くなっていた。
未来を描こうとすると、
あの別れ際の言葉が浮かんでくるから。
スマホを手に取る。
画面には、最後のメッセージが残っている。
『また連絡するね』
あれから、もう半年。
既読もついていない。
「もう、終わったんだよね。」
声に出すと、思ったよりも静かだった。
その静けさが、かえって胸の奥を締めつけた。
リビングの照明を少し落とす。
秒針の音だけが、部屋の中を満たしていた。
動いているのに、どこかで止まっているように感じる。
そして気づく。
私はまだ、あの日の時計の前に立ったままだ。
夜の部屋に、湯気の消える音だけが残っていた。
マグカップを両手で包みながら、千紗はスマホを見つめていた。
画面の上に並ぶメッセージは、もう動かない。
最後に「また連絡するね」と届いたあの日から、半年が過ぎた。
“彼はいま、どんな気持ちなんだろう。”
そんな問いを何度も心の中で繰り返した。
答えのない時間が長くなるほど、
彼の沈黙には無数の意味があるように感じてしまう。
──忙しいのかもしれない。
──もう気持ちが冷めたのかもしれない。
──誰か、別の人がいるのかもしれない。
考えるたびに息が浅くなっていく。
それでも、知りたい気持ちは消えなかった。
スマホの画面を開き、占いアプリをタップする。
通話予約のページに指を置くと、
心臓の鼓動が一拍ごとに近づいてくる。
「もう、相談なんてする年齢じゃない」
そう思ってきたけれど、
今夜だけは、誰かの声がほしかった。
発信音が三回鳴ったあと、柔らかな声が耳に届いた。

こんばんは。はじめまして。お名前を教えていただけますか?
……千紗です。



千紗さんですね。今夜はどんなご相談でしょうか。
声の奥に、少し春の風みたいな温度があった。
……別れた人がいるんです。半年くらい前に。
自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
最近、連絡が減って。最後の“また連絡するね”が、最後になってしまって……。
静かな間。
相手が深呼吸をした気配が伝わってきた。



彼は、別れのタイミングで
千紗さんとの関係を、いったん清算したようです。
その言葉に、胸の奥が微かに揺れた。
やっぱり、そうなんだ。
でも、思ったより痛くはなかった。
“わかっていたこと”に、やっと名前がついたような感覚だった。
言葉の意味を反芻するうちに、少しだけ息を整える。
“清算”という響きが、
胸のどこかに残って離れなかった。



彼は今、自分の時間を取り戻しているようですね。
仕事や人間関係、やるべきことを優先したい時期です。
“優先したいこと”。
それが“私じゃない”という現実が、
ゆっくりと体の中に沈んでいく。
……もう、脈はないってことですか?
占い師の声は、すぐには返ってこなかった。
短い間のあと、やさしく笑う気配がした。



そういうことではありません。
ただ、今の彼に“再び恋を始める余白”がないだけ。
人の気持ちは固定ではありませんよ。
変わることも、戻ることも、進むこともあります。
沈黙が再び訪れる。
言葉の隙間に、湯気の消える音が溶け込んでいく。



もし再構築を望むなら、
“もう一度つながる”のではなく、“初めて出会う”気持ちで向き合うことです。
その言葉が、静かに胸の奥に染みこんでいった。
“初めて出会う”。
つまり、過去の続きを望むのではなく、
今の私として、今の彼と向き合うということ。



でも、そのためにはね。
占い師の声が、少しだけ柔らかくなった。



まず、千紗さん自身の“理想の関係”を書き出してみてください。
彼とのことではなく、あなたがどんな関係を大切にしたいか。
理想の関係。
その言葉がノートのページのように心に開いた。



すぐに答えが出なくても大丈夫。
その作業が、あなたの心を“今”に戻してくれます。
通話が終わったあと、
部屋の空気がほんの少し軽くなっていた。
外は変わらず静かな夜。
でも、胸の奥には新しい空気が流れ始めていた。
通話が終わると、部屋の中が少しだけ広く感じた。
誰もいないのに、空気の密度が変わったような静けさ。
テーブルの上のノートを開く。
光沢のない紙が、ひんやりと指先に触れた。
「理想の関係を書き出してみてください」
さっきの占い師の声が、胸の奥でまだ響いている。
最初の一行を書こうとして、ペン先が止まった。
“理想”って、なんだろう。
頭の中に浮かんでくるのは、いつも彼との記憶ばかり。
春の夜風、カフェの窓際、同じ方向を見て笑った横顔。
けれどそのどれもが、“過去の私”が描いた理想だった。
深呼吸をして、ノートを新しいページにめくる。
空白の紙に映る自分の影が、少しだけ頼りなく見えた。
「私が大切にしたい関係は──」
書きながら、思考がゆっくりと言葉になっていく。
ペン先が紙を滑るたびに、言葉が途切れる。
何を書いても、“誰かのため”の言葉に聞こえてしまう。
それでも、書くことをやめなかった。
- 言葉にしなくても安心できる関係
- 沈黙が怖くない関係
- “待つ”より“育てる”時間を共有できる関係
ペン先からこぼれた言葉たちは、
彼の名前を一度も使わなかった。
書き終えた瞬間、
胸の奥で何かが静かにほどけた。
“彼との関係”を描くはずだったページが、
“私が生きたい時間”を描くページに変わっていた。
ペンを置く。
ノートの端に、少しだけインクの跡がにじんでいた。
それがまるで、
今の自分の心を映しているように思えた。
「私、ちゃんと書けたんだ。」
小さく呟いた声が、部屋の空気に溶けていく。
誰かに認めてもらわなくても、
この一文は私自身の証明だった。
リビングの灯りを落とす。
ノートの白が、月明かりに淡く浮かぶ。
その光の中で、止まっていた時間が
ほんの少しだけ、動いた気がした。
窓の外で風が鳴った。
夜の空気が少し冷たくて、カーテンの端がゆらいでいる。
千紗はテーブルの上のノートを閉じた。
書き終えたページを見ても、胸の奥はまだざわついていた。
「これが、本心なのかな……」
小さく呟いた声が、部屋の空気に溶けていく。
“理想の関係”なんて言葉、
書いてみたものの、それが本当の気持ちかどうか自信がない。
もしかしたら、
“こうありたい自分”を書いただけなのかもしれない。
ノートの端をなぞる指先が、少し冷たかった。
心のどこかに、まだ彼が残っている。
“あの人なら、なんて言うだろう”
そんな考えが浮かんでしまう。
机の端のスマホは、静かに伏せられたまま。
それでも、
光がつくかもしれないと何度も思ってしまう自分がいる。
「……私、まだ何も変われてないのかもね。」
苦笑いがこぼれる。
でも、その声の中には少しだけ安堵があった。
変われていないと認められることも、
少しだけ勇気がいることだから。
ノートの端を指で押さえながら、ふと思う。
──きっと私は、付き合っていた頃から、
“理想の関係”を求めすぎていたんだろう。
相手を思うことより、自分の理想を叶えようとして。
その窮屈さが、彼の心を遠ざけたのかもしれない。
「……少し、勉強してみようかな。」
声に出した自分に少し驚く。
スマホを手に取り、検索窓に指を置く。
“恋愛 自己分析 本”
いくつかのタイトルが並ぶ画面を見て、
千紗は一冊を選んで購入ボタンを押した。
風の音がまたひとつ、遠くで鳴った。
月明かりがカーテン越しに部屋を照らし、
ノートの白い表紙が、淡く光を返していた。
ページの中の言葉たちは、
嘘じゃない。でも、全部じゃない。
その曖昧さの中で、
千紗はようやく小さく息を吐いた。
動き出したわけじゃない。
けれど、“動かしたい”と思えたこと──
それが今夜の、ささやかな救いだった。











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