

季節が、静かに春から初夏へと移ろっていた。
ベランダのハーブは勢いを増し、淡い緑が風に揺れている。
真奈は仕事の書類を片づけ終え、ふとデスクの隅に置いた小瓶に目をやった。
《澄の途》。
旅先で作った、自分だけの香水。
ガラス越しに光を透かすと、液体が小さく揺れ、
あの日の海のきらめきがふいに蘇った。
キャップを外して、指先に一滴だけつける。
ラベンダーとウッドの香りが、ゆっくりと部屋に広がる。
それは懐かしさというより、“今の自分”を確かめるような匂いだった。
窓を開けると、初夏の風がやさしく頬を撫でた。
空の色が少しだけ淡く霞んでいて、どこか遠くへ行きたくなる。
その衝動は、予定や計画の類ではなく、
もっと直感的で、呼吸のように自然なものだった。
「……また、行ってみようかな。」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが小さく灯った。
机の上には、旅のノート。
角が少し丸くなったその表紙を撫でると、紙の温度が掌に伝わる。
あのときのページをめくると、
──“今日、ちゃんと帰ってきた。心も一緒に。”
という文字があった。
思わず、口元がほころんだ。
“帰る”という言葉を選んだ自分が、今は“また行く”と書き加えようとしている。
その変化が、まるで季節の移ろいのように自然に感じられた。
荷物を詰めるのは、もう明日でいい。
今夜はこの香りと風に包まれながら、静かに眠ろう。
《澄の途》の瓶を窓辺に置く。
ガラスに反射した光が、部屋の壁に小さな虹を描いた。
真奈はその虹を見つめながら、
心の中でそっとつぶやいた。
──「今度の旅は、未来に会いに行く旅。」
風が、やさしくカーテンを揺らした。
電車がゆるやかにカーブを描きながら、海沿いの線路を走っていた。
窓の外には、陽を受けて銀色に光る波。
あの頃と同じ町並みが、少しだけ色を変えて流れていく。
真奈はイヤホンをせず、ただ風の音を聴いていた。
車輪のリズムと波のリズムが重なり合い、
それがまるで“時間の音”のように思えた。
「懐かしい、っていうより……」
小さく呟く。
“帰ってきた”という感覚に近かった。
駅に降り立つと、潮の匂いがやさしく包み込んだ。
前に来たときと同じ、穏やかな風。
けれど、その風が運ぶ意味はまるで違っていた。
あの頃の風は、傷を包むための風。
今の風は、背中を押すための風。
歩き慣れたはずの道を進む。
港の向こうでカモメが鳴き、
小さなパン屋の看板が相変わらず軒先にぶら下がっている。
ふと、前回立ち寄った香水のアトリエの前で足を止めた。
店のドアは開いており、中から柔らかな香りが流れてくる。
前と同じ店主が、カウンター越しに顔を上げた。
「あら、また来てくださったんですね。」
「覚えていてくださったんですか?」
「ええ。《澄の途》という名前、忘れられませんもの。」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
店内には新しい香料の瓶がいくつも並び、
淡い光がガラスを透かして床に反射していた。
「おかげで、あの香りはずっと私の支えでした。」
「それは嬉しいです。また何か作ってみますか?」
「ううん、今日は……ただ、この香りの“続き”を探しに来たんです。」
店主は微笑んだ。
「香りの続き、ですか。」
「はい。前よりも少し、前に進めるような香りを。」
「少し前に進めるような……」
店主は短く頷くと、カウンター越しに穏やかに問いかけた。
「今のあなたの気持ちを、少し教えていただけますか?」
真奈は少し考えてから答えた。
「そうですね……穏やかなんです。けれど、まだ“何かを始める勇気”までは届いていない気がして。」
店主は棚の瓶をひとつずつ手に取り、
光の中で香りを確かめながら言った。
「なるほど。でしたら──ウッドを少し抑えて、
ベルガモットとホワイトティーを重ねてみるのはいかがでしょう。
静けさの中に“風の通り道”が生まれます。」
「風の通り道……?」
「はい。心が動き出すとき、人は無意識に風を求めるんです。
その風が通る場所を、香りで作ってあげる。
きっと今のあなたに、ちょうどいいと思いますよ。」
真奈はその言葉に、自然と微笑んだ。
香りづくりという会話の中に、自分の心が映っている気がした。
ビーカーの中で、透明な液体がゆっくり混ざり合う。
わずかに立ちのぼる香りが、かつての《澄の途》よりも少しだけ軽やかだった。
“過去を見つめる香り”から、“未来へ風を通す香り”へ。
それは、真奈自身の変化でもあった。
店主が瓶のキャップを閉め、ラベルに小さく文字を書いた。
「この香りの名前、どうされますか?」
真奈は少し迷ってから、静かに答えた。
「……《凪の続き》で。」
店主はうれしそうに頷いた。
「素敵ですね。静けさのその先──ですね。」
瓶を受け取った瞬間、真奈はそっと手首にひとしずくつけた。
爽やかなベルガモットと、柔らかなホワイトティー。
そこに、遠い日の風の記憶が重なった。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ。またいつでも、“続きを”作りに来てくださいね。」
店を出ると、午後の光が石畳に反射していた。
風が頬をかすめ、《凪の続き》の香りがふわりと舞う。
真奈は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をした。
香りと風が混ざり合い、胸の奥に静かな熱を残す。
“また風を感じられるようになったんだ。”
その実感が、心のどこかでそっと鳴った。
風は、優しい。
そして、前に進むとき、いつも傍にいてくれる。
真奈はバッグの中の小瓶をそっと確かめ、
駅へ向かって歩き出した。
街路樹の間をすり抜ける風が、
まるで次のページをめくるように彼女の髪を揺らした。
カフェのテラス席に腰を下ろすと、潮風がやさしく頬を撫でた。
目の前には青い海と、遠くに浮かぶ白いヨット。
テーブルの上には、《凪の続き》の小瓶と、革のノート。
「ここなら、書けそうな気がする。」
真奈は小さくつぶやき、ページを開いた。
ペンを持つ手が、ほんの少しだけ震えていた。
風がノートの端をめくる。
その音に合わせて、ゆっくりと文字が生まれていく。
「10年後の私へ」
あなたは今、どんな風の中にいますか。
あの日から、もう10年が経ちました。
あの頃の私は、何かを失うたびに、自分まで壊れていくような気がしていました。
でも今は違います。
“失うこと”は、空白ではなく“新しい形の余白”だと知ったから。
あの海辺の町で作った香水、《澄の途》。
そして今日、もうひとつの香り《凪の続き》。
このふたつの香りが、私の10年を挟んで並ぶのかもしれません。
もし、未来のあなたがまた迷ったときは、
どうか《凪の続き》の瓶を開けてください。
その香りの中に、私の祈りが溶けています。
「恐れではなく、優しさで選びたい」──
あの言葉を、あなたがまだ覚えていますように。
そしてどうか、
誰かを愛しているなら、その人の手をちゃんと握ってあげてください。
もし一人でいるなら、それもまた誇らしく笑ってください。
あなたがどんな場所にいても、
風はきっとあなたの味方でいてくれます。
それが私が見つけた“生きるための香り”です。
ペンを置くと、心の奥で小さな波が音を立てた。
静かで、やわらかな波。
ノートの上の文字が光に照らされ、まるで息づいているように見えた。
真奈は《凪の続き》の瓶を開けて、空に向かって一滴だけ香りを放った。
風がそれをさらい、海のほうへと運んでいく。
「10年後の私も、きっと笑っている。」
その言葉が風に溶け、青い空に消えていった。
真奈は目を閉じ、深く息を吸った。
香りと潮の匂いが混ざり合い、胸の奥が温かく満たされる。
──“この道の続きも、きっと美しい。”
その確信が、心の中で静かに光った。
時間は、すべてを癒す。
けれど、それは「忘れる」という意味ではない。
痛みを抱えたままでも、生きていけるように
心の形を少しずつ変えてくれる──
それが、時間のやさしさだ。
あの日、現実を知った私も、
信じたことを後悔していた。
でも、あの経験があったからこそ、
“自分を守る強さ”と“もう一度信じる勇気”を手に入れた。
もし今、あなたが誰かの嘘や別れに苦しんでいるなら、
どうか無理に前を向こうとしなくていい。
時間に、少しだけ委ねてみてほしい。
心は、ちゃんと自分のペースで回復していくから。
泣いても、止まっても、立ち止まってもいい。
そのすべてが“生きている証拠”だ。
やがて、風がまた吹く。
その風は、きっとあなたの頬をやさしく撫でる。
それが“もう大丈夫”の合図。
過去の自分があなたを支え、
未来のあなたが今のあなたを待っている。
その間をつなぐのが、今日という一日だ。
どうか、焦らずに。
10年後のあなたが笑っていられるように、
いまは、静かに心を整えよう。
香りが、風が、あなたを包む日が必ず来る。
そしてそのとき、きっと思うはず。
──「あの痛みがあったから、いまの私がいる」と。
真奈が見つけた“澄の途”と“凪の続き”は、
誰の中にもある“癒しの軌跡”の象徴。
あなたにも、あなた自身の香りがある。
どうかその香りを信じて、
ゆっくりと、自分の道を歩いていってほしい。





コメント