

穏やかな朝だった。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込む。
窓を開けると、冬の名残を含んだ風が部屋を通り抜けていった。
デスクの上には、いつものノートと《澄の途》の小瓶。
真奈は、椅子に腰を下ろし、ノートの表紙をゆっくり撫でた。
ページの端には、旅先でついた小さな折れ跡が残っている。
そのひとつひとつが、自分の時間の証のように思えた。
ペンを取る前に、まず深呼吸をした。
香水の瓶を開けると、かすかな香りが空気に混ざる。
ラベンダーの柔らかさと、ウッドの静けさ。
その香りが部屋に広がるたびに、心が整っていくのを感じた。
ノートを開く。
ページをめくるたびに、当時の文字の温度が伝わってくる。
少し震えた字もあれば、淡々とした字もある。
それはまるで、感情の地図のようだった。
一枚目のページに書かれていたのは、あの日の言葉。
──“何もしなかった。でも、生きていた。”
あの時は、ただ時間をやり過ごすことで精一杯だった。
呼吸することすら、努力のひとつだった。
けれど、今読み返すと、その一文の中に
「生きることを諦めなかった自分」が確かにいた。
次のページをめくる。
──“今日、ちゃんと帰ってきた。心も一緒に。”
旅の帰りに書いた文字。
あの海の風とともに、心が静かに戻ってきた日の記録。
「帰る」という行為が、“終わり”ではなく“再出発”の意味を持つことを、
あの時初めて知ったのだと思う。
さらにページをめくる。
──“出会いを恐れない。それも私の回復の一部。”
あの夜、白い花と香りに囲まれて書いた言葉。
誰かと関わることを怖がっていた自分が、
もう一度「世界に触れよう」と思えた瞬間。
この一文に、今の私のすべてが凝縮されている気がした。
指先でその文字をなぞる。
インクの跡が、時間を超えて指に伝わってくる。
“あの頃の私”と“今の私”が、
同じ場所で静かに並んで座っているような気がした。
真奈はペンを手に取った。
白いページの上に、ゆっくりと文字を並べていく。
「悲しみ」「怒り」「空白」「希望」
それぞれの言葉の横に、今の自分の気持ちを少しずつ書き加えていった。
悲しみ
あの日、彼の口から聞いた「うん」という一言。
あの瞬間の空気の重さは、今でも覚えている。
けれど、あの悲しみは“終わりの痛み”ではなく、“真実を知った痛み”だった。
あの時、現実を受け止めたことで、私はようやく“嘘の中で生きない自分”になれたのだと思う。
怒り
怒りは、不思議とすぐに薄れていった。
裏切られたというより、「なぜ私は、またこの形を選んだのだろう」と
自分に問い続ける時間の方が長かった。
あの時の怒りは、他人ではなく自分へのものだった。
でも今は、それを責める気持ちはない。
“信じたい”という想いそのものが、人を動かす力でもあると知ったから。
空白
いちばん長く続いたのは、この感情だった。
何も感じない、何も動けない──
その時間が、実はいちばん「再生に必要な静けさ」だった。
空白は、喪失ではなく、再構築のための余白。
あの静けさがあったからこそ、私はもう一度世界の音を聴けた。
希望
希望は、ある日突然ではなく、
少しずつ心の奥から滲み出るように戻ってきた。
旅の海の音、香水の瓶、白い花、友の笑顔。
それらの小さな光が、今の私を作っている。
希望とは、何かを“手に入れる”ことではなく、
“もう一度、自分を信じてみようと思える勇気”のこと。
ペン先が止まり、静かな余韻が残った。
書き終えたページを眺めながら、真奈は微笑んだ。
“私の中には、悲しみも、怒りも、希望も、ちゃんと居場所がある。”
そう思えた瞬間、胸の奥で何かが静かに整った。
窓の外では、木の枝が春の風に揺れていた。
光がやわらかく机の上を照らし、ノートのページが淡く光を返す。
真奈は新しいページを開いた。
まだ何も書かれていない真っ白な紙。
でも、その白さに“怖さ”はなかった。
むしろ、これからの自分を迎え入れてくれるような、穏やかな静けさがあった。
ペンを握り、ゆっくりと書き始める。
──“私はもう、恐れではなく優しさで選びたい。”
書き終えた瞬間、心の奥に柔らかな熱が広がった。
それは決意というよりも、祈りに近かった。
誰かを愛することも、自分を守ることも、
その根っこに“恐れ”ではなく“優しさ”を置いて生きたい。
かつての私は、傷つくことを怖れて、
自分の気持ちさえも疑っていた。
けれど今は、たとえまた痛みを知る日が来ても、
それを受け止めるだけの力を持っている気がする。
《澄の途》の香りを少しだけ指先につける。
香りが空気に溶けていく。
それは、過去を閉じるためではなく、
未来を迎えるための儀式のようだった。
ノートを閉じると、ページの中で文字が静かに息づいている気がした。
“これは終わりじゃない。新しい章の始まり。”
真奈は微笑んだ。
恐れのない優しさ──それが、これから歩く道の灯りになる。
午後の光がカーテンを透かしていた。
部屋の空気は穏やかで、時間が少しだけゆっくり流れているように感じる。
真奈は窓を開けた。
外から、春の風がそっと吹き込んでくる。
花の匂いと、少し湿った土の香り。
それが《澄の途》と混ざり合い、部屋の中に新しい季節の匂いをつくった。
机の上のノートが、風でわずかにめくれる。
開かれたページには、今日書いた言葉が光に照らされていた。
──“私はもう、恐れではなく優しさで選びたい。”
その文字が、まるで風に溶けて空へ昇っていくように見えた。
真奈は窓辺に立ち、外の景色を見つめた。
街路樹の葉が陽に透けて、淡い緑の影を地面に落としている。
行き交う人たちの笑い声、遠くの子どもの声。
どれも当たり前の音。
でも、今はその一つひとつがいとおしい。
“世界はちゃんと動いている。私も、その中で生きている。”
そう思うと、胸の奥に小さな灯りがともった。
真奈は深く息を吸い込む。
香りが喉を通り、肺の奥に届く。
それは、希望の匂いだった。
《澄の途》の瓶を光にかざす。
ガラスの中で光が揺れ、小さな虹が生まれた。
その虹を見つめながら、真奈は静かに微笑む。
──“この道の続きには、きっとまた新しい私がいる。”
ノートを閉じ、部屋の灯りを落とした。
残されたのは、光と風と香り。
それだけで十分だった。
風がそっとカーテンを揺らした。
その音が、今日という一日をやさしく包み込む。
真奈は目を閉じて、心の中でつぶやいた。
「ありがとう」
誰に向けた言葉かは分からない。
けれどその一言が、今の自分をまるごと肯定してくれる気がした。
──そして、風はまた静かに、次の季節へと流れていった。





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