凪の続き【#2】─信じることの痛み─

凪の続き【#2】─信じることの痛み─

月曜日の朝、いつもより少し早く目が覚めた。
ぼんやりとニュースを眺めながらコーヒーを飲んでいると、
机の上でスマホが小さく震えた。

画面には、
「おはよう。仕事が立て込んでてごめん、返事遅くなった」
の文字。

久しぶりに見る「健司」という名前に、胸の奥が小さく跳ねた。

“立て込んでて”
──その言葉だけで、数日分の不安が少し溶けていく。
思わず口角が上がったが、同時に指が止まった。

どう返すべきか、ほんの一瞬迷う。
“おはよう、忙しいのにありがとう”
それとも、
“気にしてたよ”と書くべきか。

最終的に私は、短く「おはよう。お仕事お疲れさま」と送った。
少し他人行儀な言葉に見えたけれど、
それ以上の温度を込めるのが、なぜか怖かった。

送信のあと、画面を伏せて深呼吸をした。
返事はすぐには来なかった。
けれど、久しぶりに届いたメッセージだけで十分だった。

それだけで、今日は少しだけ穏やかに過ごせそうな気がした。

昼休み、社員食堂で同僚の彩香と並んで座った。
「週末、何してたの?」と聞かれて、少し間があいた。
「家のこと、いろいろ」とだけ答える。

嘘ではない。でも、真実でもない。

「ちゃんと食べてる? 顔色悪いよ」
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
「寝不足って一番ダメだからね」

いつだって彩香は私を気にかけてくれる、
ありがたい存在だ。

スマホを確認すると、
昼休みの終わりごろに健司からの返信が来ていた。

「午後から外回り。今日もバタバタだよ」
文末に小さな顔文字。
その絵文字の“軽さ”が、文面の温度と私の体温をずらした。

ふと、前もこの時間帯だったなと思い出す。
平日の昼間にだけ送られてくるメッセージ。
夜や週末には、なぜか沈黙が続く。
それでも私は、忙しい人なんだと自分に言い聞かせた。

“返信が来る”という事実を、
“関係が続いている”という証拠に変えていた。
それが自分を落ち着かせる唯一の方法だった。

夜、ベランダに出て洗濯物を取り込みながら空を見上げた。
雲の切れ間に、うっすらと月が見えた。
丸くもなく、欠けてもいない。
その中途半端な形が、今の気持ちと少し似ていた。


翌日、職場の朝礼が終わっても、まだ気持ちが少し浮ついていた。

健司からの返信が昨日の昼で途絶えている。
「午後から外回り」と言っていたから、きっと今日も忙しいのだろう。
そう思いながらも、
朝の通勤電車でスマホを開く自分に、少しだけ苦笑した。

昼、彩香がコンビニで買ったサンドイッチを半分くれた。
「最近、スマホよく見てるね」と言われて、
反射的に「そんなことないよ」と笑った。
けれど、画面を伏せた指先がわずかに強張っていた。

昼休みが終わるころ、健司から短いメッセージが届いた。

「今日は社外の人とランチ。午後は打ち合わせ続き」
ふつうの文。ふつうの語尾。
それなのに、心のどこかで違和感が広がった。
“誰と”という言葉が、喉の奥まで上がってきて、
そのまま消えた。

家に帰ると、キッチンに昨日のマグカップがそのまま残っていた。
洗わなきゃと思いながらも、指先は動かなかった。
テレビをつけても、言葉が耳に入らない。
“昼間にだけ来る連絡”が、だんだんと“夜に来ない連絡”に変わっていく。

ベランダに出ると、風が冷たかった。

道路の向こう側で、アパートの窓がいくつか灯っている。
カーテンの隙間から見えるあかりが、どれも違う生活を映しているように見えた。

人にはそれぞれの夜がある。

そして、彼の“夜”は、私の知らないところにあるのかもしれない──
そんな考えが一瞬よぎった。

でも、すぐに首を振る。
疑いたくない。
疑うことで壊れるものがある。
それをよく知っているからこそ、私は慎重になる。

机の上に置いたノートを開いた。

「信じる」という文字をゆっくり書いてみる。
線が少し震えた。
ペン先が紙を滑る音が、静かな部屋にやけに響いた。

私は目を閉じて深呼吸をした。

信じるとは、待つことではなく、
見えない時間の中でも、自分を疑わないこと。

そう書き加えて、ペンを置いた。

カーテンの向こうで、風がまた少し動いた。
夜が深まるほど、部屋の空気が澄んでいく。

それでも心のどこかには、
言葉にならないざらつきが残ったままだった。


昼休み、食堂の隅で彩香が隣に腰を下ろした。

「ねえ真奈、今日元気ないね。昨日の夜も残業してた?」
「ううん。家にはいたけど、なんか眠れなくて」

スープをすくいながら答えると、彩香は少し眉を寄せた。

「疲れてるんじゃない?ちゃんと休まないと」

そう言いながら、彼女は自分のスマホをいじっていた。
その横顔を見ながら、私はふと、自分が何を隠しているのかを意識した。
食後のコーヒーを飲み干してから、私は席を立った。

職場に戻る途中で、ふと頭に浮かんだのは、
あの“いばらの道”という言葉だった。

仕事を終えた夜、真奈は帰宅後にスマホを手に取った。
画面の向こうの世界に、答えを探すように。
通話アプリを開くと、履歴の中に見覚えのある名前があった。

──あの占い師。

相談するのは二度目なんですけど……

自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。

こんばんは。お久しぶりですね

穏やかな声が返ってきた。

どうされましたか?

少し間を置いて、私は言葉を探した。

彼とは……一応連絡は取れてるんです。
でも、なんだか少し、距離がある気がして

そうですか……。前に“いばらの道”という言葉をお伝えしましたね。
その道の先で、あなたは何を見ていますか?

“何を見ているか”
──その問いが胸に残った。

私は言葉を選びながら答えた。

彼を信じたい。でも、見えない時間が増えてきて、
何を信じればいいのか、分からなくなっていて……

受話器の向こうで、短い沈黙が流れた。
そのあと、占い師の声が静かに続いた。

やはりそうですか。前回の鑑定のときから、
彼のまわりに“女性の影”を感じるのです。
ただ、それが誰かまでは見えません。
今あなたが感じている違和感は、
彼の行動だけでなく、あなたの心が“真実を知り始めている”からです。

“真実を知り始めている”──
その言葉が、体の奥まで沁みていった。

私は何も言えなかった。
画面の向こうの声が、どこか現実よりも穏やかで、
その穏やかさが逆に痛かった。

占いは絶対ではありません。
でも、あなたの心がすでに答えを持っているなら、
その声を無視しないでください。
今はまだ、無理に決めなくていいんです。
ただ、“心が揺れた理由”を見つめてみてください。

通話が終わると、部屋の時計の針が九時を少し回っていた。
窓の外は風が強く、ベランダのハーブが小さく揺れていた。
私はカーテンを閉め、椅子に座り込んだ。

“心が揺れた理由”。
それは、信じることに疲れたからなのか、
それとも、もう信じられないことを知っているからなのか。

胸の奥で、その二つの間が静かに揺れていた。


通話を終えたあと、しばらく机の上のランプを見つめていた。
光が紙の上で静かに滲んで、
その明るさが、やけに現実的に見えた。

私はノートを開いた。
ページの端に日付を書いて、タイトルをつける。
「今の気持ちを整理する」

深呼吸をして、ペンを走らせた。
“もし彼に他の人がいたら”
“もし、既婚者だったら”
“この関係が続かなかったら、私はどうする?”

一行ごとに、インクが少しずつ濃くなっていく。
書いているうちに、心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのがわかった。

“想定しておけば、傷は浅くて済む”

そう言い聞かせるように、私はページを埋めていった。

途中で手を止め、ペンを指先で転がす。
本当に私は、これを“整理”しているのだろうか。
書き出すたびに、
「もしも」が現実に少しずつ近づいていくような気がした。

窓の外で風が強くなった。
ガラスがかすかに震えて、小さな音を立てた。
その音を聞きながら、私は再びペンを取った。

“どんな未来になっても、私は立ち直れる”

その一文を、少し力を込めて書いた。
まるでそれが呪文のように、自分を守ってくれる気がした。

書き終えると、ページを閉じた。
ノートの表紙を手のひらで撫でる。
温もりも冷たさもない、ただの紙。
けれど、そこに並んだ文字は、
確かに私の中から生まれたものだった。

少しだけ、心が静かになった。

机の脇に置いたスマホの画面をちらりと見た。
通知はなかった。
けれど、今はそれでいいと思えた。

感情を外に向けない代わりに、
私は“書く”という形で、自分を守っている。

誰かを責める代わりに、
“自分の感情を観察する”ことで、心の温度を保つ。

それは逃避ではなく、
今の私にできる、いちばん理性的な防衛だった。

ノートを閉じ、電気を消す。
部屋が闇に包まれても、不思議と怖くなかった。
静けさの中で、自分の呼吸だけがはっきりと聞こえた。

私はゆっくりと目を閉じた。
心の奥で、
“もう、薄々分かっているんだろう?”
そんな声が、微かに響いた。


翌朝、目が覚めたとき、カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。
まだ外は少し曇っていて、街の音が遠くでくぐもっている。
昨日よりも、静かな朝だった。

枕元のノートを開く。
書いたばかりのページが少し波打っていた。
指先でなぞると、インクの凹凸が指に触れた。
夜のうちに乾いた文字たちは、もう感情を持たない。
それなのに、どこか温度が残っている気がした。

“もしも”で始まるたくさんの仮定。
そのひとつひとつが、
昨日よりも少しだけ現実に近づいて見えた。

キッチンでお湯を沸かし、カップに紅茶を注ぐ。
湯気の立ち上る様子を見つめながら、
私は心の中でひとつの言葉を反芻していた。

──“心が揺れた理由”。

昨日、占い師が言った言葉だ。
“彼の行動だけじゃなく、あなたの心が真実を知り始めている”
その一節が、今になってやけに穏やかに響いていた。

信じたい、という気持ちはまだある。
けれど、その信じたい気持ちを根拠に、
すべてを正当化することはもうできない。

それでも、私は彼を責めたいわけじゃない。
怒りよりも先に、
「どうしてこんなふうにしか関われなかったんだろう」
という小さな哀しみの方が近かった。

窓の外では、風が少しずつ雲を流していた。
青空が覗くたび、光が部屋に差し込んでいく。
カーテンの影が床を移動して、
ノートの端をゆっくりと照らした。

私は深呼吸をして、紅茶を一口飲んだ。
口の中にほんのりした苦味が広がる。
それは、どこか安心できる味だった。

ノートを閉じながら、心の中で呟く。

まだ終わっていない。
ただ、見えないだけ。

その言葉が、静かに胸の奥に沈んでいった。

ベランダのハーブは少し成長していた。
風に揺れながら、光を受けている。
その小さな揺れを見ていると、
何も決まっていないことが、
少しだけ救いのようにも思えた。

ベランダの鉢で、葉と葉がかすかに触れ合う。
風が、ひときわ優しく窓を鳴らした。


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