凪の続き【#1】─いばらの道のはじまり─

凪の続き【#1】─いばらの道のはじまり─

やっと、ちゃんとした恋ができると思っていた。

恋活アプリで知り合った彼は、プロフィールの文章が整っていて、
写真の笑顔も控えめで、誠実そうに見えた。

実際、最初の待ち合わせに少し早く着いていたのは彼のほうで、
「寒くないですか」とホットココアを手渡されたとき、私は少しだけ未来のことを想像してしまった。

二回目、三回目のデートは、肩肘張らない場所ばかりだった。
仕事帰りに駅ビルのカフェで話すとか、休日に商店街をぶらつくとか。
手をつないで歩くだけで、充分だった。

並んで歩く歩幅が自然にそろう相手なんて、そうそういない。
私は恋に慎重なほうだし、次の恋はきちんと、
嘘や隠し事のない関係にしたいと思っていた。

だから、焦らないと決めていた。彼も、それを尊重してくれているように見えた。

ある夜、帰り際に彼が言った。「いつか、どこか遠くに行きたいね」
その“いつか”が、私の中では“次の春”くらいの距離感に変換され、
私は家に帰ってから旅行サイトをぼんやり開いた。

大袈裟なリゾートじゃなくていい、
海の見える町で、朝に散歩して、夜に温かいものを食べる、そんな旅。
ふたりで行くことを前提に、安い宿をお気に入りに入れて、画面を閉じた。

“ちゃんとした恋”は、たぶん、生活の延長線上にある。
仕事の話をして、たまに愚痴もこぼし合って、でも相手の時間や疲れを踏みにじらないこと。
私はそういう恋がしたかった。

会えない日があっても不安にならない、
連絡が少し空いても「きっと忙しいんだな」と受け止められる、信頼のある恋。
そう思っていた、はずだった。

三連休の前日、彼から「連休はちょっとバタバタしそうで」とメッセージが来た。

了解、と返してスタンプを送る。
最後に小さなハートをつけるか迷って、やめた。
軽さを出したくなかったのだと思う。

私はスマホを伏せて、キッチンに立った。
湯気が上がる鍋を見ていると、胸の奥がゆっくり温かくなった。

どうか、今度は大切に続きますように。そんな祈りに似た気持ちだった。

土曜日。いつもなら午前中に「おはよう」が届く。通知は鳴らなかった。

昼過ぎ、私は洗濯物を干して、スーパーに行き、夕方に帰ってきた。
スマホは静かなまま。既読もついていない。

バタバタって、どのくらいのバタバタだろう。
忙しいのは、仕事?それとも誰かと過ごしているのだろうか。

そういう発想は好きではない。
疑うことを、私はなるべく避けて生きてきた。

疑い続けると、人は自分まで嫌いになってしまうから。

日曜日。午前のジムをさぼって、部屋を片づけた。

机の引き出しから、前に買ったままの旅行雑誌が出てきた。
付箋がいくつもついた海辺の特集ページ。

私は雑誌を閉じて棚に戻し、深呼吸をした。
連絡がないことを、理由もないまま悪い兆しだと決めつけたくなかった。

ただ、スマホに触れる指先は少し汗ばんでいた。

夜、ベッドに横になって天井を見つめる。

関係の名前をつけていないまま、関係だけが進んでいくことの心もとなさに、初めて気づいた気がした。

告白を待つのは、単なる手順の問題じゃない。
私が望んでいるのは、曖昧さの中で居場所を探すことではなく、互いに責任を持てる位置に立つことだった。

安全で、清潔で、嘘のない場所。
恋は、そこから始めたい。

月曜日。三連休の最終日。

昼前、私はベランダに出て、薄く雲のかかった空を見上げた。
洗濯物が風に揺れて、ハンガーが小さく触れ合う音がした。

私は指でスマホの電源ボタンを押し、黒い画面に自分の顔が映るのを見た。

通知は——
やはりない。

胸のどこかで、小さな音がした。
パチン、と糸が切れるみたいに。

私はリビングに戻って、テーブルの上のメモ帳を手に取った。

「連絡がない三日間に、私が感じたこと」

ボールペンでそう書いて、線を引く。

書き出してみよう。
私の心が、どこで揺れて、何を望んでいるのか。

恋をきれいに保つために、私が私に正直でいるために。
ページの上で、言葉が少しずつ、形になり始めた。


三連休が終わっても、連絡は戻らなかった。

仕事が始まればいつも通りに戻ると思っていた。
けれど、火曜日の夜になってもスマホの画面は静まり返っていた。

既読もつかない。

送る言葉を何度も書いては消した。
「忙しい?」と聞くのも、「大丈夫?」と案じるのも、どちらも違う気がした。
言葉のひとつで、関係の重さを測られるような気がして。

沈黙の向こうで、彼がどうしているのか。
考えれば考えるほど、息苦しかった。

私は机に肘をついて、週末に書いたメモ帳を開いた。

そこには「連絡がない間に感じたこと」と書かれたページがあり、
その下には〈信じて待ちたい〉〈でも何を信じているのか分からない〉という言葉が並んでいた。

“信じる”という行為が、こんなにも不安定なものだとは思わなかった。
彼の声を思い出そうとすると、笑顔よりも沈黙の長さが先に蘇ってくる。

夜、何気なく彼のSNSを開いた。

更新は止まっていた。
けれど、フォロー欄に見慣れないアカウントがひとつ増えていた。

女性の名前。

クリックする勇気は出なかった。
その瞬間、心臓が小さく跳ねた。

「見なければよかった」と思いながらも、
「見ないといけない」と思ってしまう。

その矛盾の間に挟まれて、私は深呼吸を忘れた。

水曜日、職場で隣の席の彩香が言った。
「真奈、最近元気ないね。なんかあった?」

私は笑ってごまかした。
「ちょっと寝不足で」

言葉を選ぶうちに、胸の奥がきゅっと痛くなった。
恋のことを誰かに話すのが、急に恥ずかしく思えた。

あんなに楽しかった会話が、今はまるで秘密の告白みたいに重たく感じられる。

沈黙は、声よりも多くのことを語る。
返事がないというだけで、こんなにも世界が曇るなんて。

夜の帰り道、信号待ちのあいだに彼のトーク画面を開いた。
最後のメッセージは、あの「了解」とスタンプ。
自分の打った言葉が、遠い過去の誰かのように感じられる。

もし今、彼から「ごめん、忙しかった」と連絡が来たら──
私は何事もなかったように返してしまうのだろうか。

それとも、「ちょっと待ってた」とだけ伝えるだろうか。

いずれにしても、心の奥ではもう、何かが変わり始めている気がした。
その“変化”を、まだ認めたくなかった。

夜更け、布団の中でスマホを握りしめながら、
私はひとりで問いかけていた。

“私たち、付き合ってるのかな?”

告白もされていない。
でも、あの時間の中で確かに愛しさを感じていた。

それだけじゃ、足りないのだろうか。
“恋人”という言葉が、こんなにも重く遠いものだとは思わなかった。

小さなため息をついて、目を閉じた。
頭の中に、誰かの声が響いた気がした。

──「あなたは、この関係をどうしたいの?」

まるで心の奥から問われているようだった。
私は答えられなかった。

ただ、静かに涙が滲んだ。


その週の金曜日、私は初めて電話占いを利用した。

どこかに相談したい、というより、心の中の音を誰かに聞いてほしかった。
アプリを開くと、穏やかな笑顔の女性のプロフィールが目に留まった。

「相手の気持ち」
「未来の選択」
──そんな言葉に引き寄せられるように指が動いた。

呼び出し音のあとに聞こえた声は、思っていたよりも落ち着いていた。

こんばんは。ご相談内容をお聞かせくださいね

その声を聞いた瞬間、涙が込み上げた。

……彼から、連絡がないんです

それだけで、泣きそうになった。
自分がどれほどこの沈黙に疲れていたのかを、そのとき初めて知った。

彼の気持ちを見ていきますね

柔らかな声が続く。
間を置いて、彼女は言った。

彼はとても忙しいようです。あなたのことを嫌いになったわけではありません

安堵のようなものが胸をかすめた。
けれど、続く言葉がその感情を打ち消した。

ただ、あなたが望む未来は、平坦ではないように見えます。
“いばらの道”という言葉が浮かびます。

“いばらの道”──

どんな意味だろう。
私は聞き返そうとして、声が出なかった。

画面の向こうで、静かに時が流れる。
占い師の声が続いた。

あなたは今、彼との未来を“お付き合い”の延長として考えていますね?

……はい。できれば、結婚も

そうですか

短い間。

彼の状況をすべて知るには、もう少し時間が必要です。
でも、あなたの心はすでに答えを知っています。
“いばらの道”を歩む覚悟がないなら、今のうちに、自分の幸せを考えてみてください。

言葉が心の奥に刺さった。
占い師の声は優しいのに、どこか現実的だった。

「いばらの道」
──それは、単なる占いの比喩ではなく、
自分が気づかないふりをしている“何か”を示しているように思えた。

通話を終えたあと、私はスマホを置き、しばらく動けなかった。

部屋の時計が小さく秒を刻む音だけが響く。

「結婚も視野に」と言ったとき、自分の声が少し震えていた。
その震えは、どこか“信じることへの不安”に似ていた。

窓の外は雨。

ガラスを伝う雫の線が、涙のようにぼやけて見えた。
私はカーテンを閉め、深呼吸をした。

「平坦ではない道……」

口の中で繰り返すと、胸の奥に小さなざらつきが残った。
けれど、その違和感が、なぜか“真実に近づいた感覚”にも思えた。


翌朝、目が覚めたとき、部屋の空気が少し冷たく感じた。

窓を開けると、昨夜の雨がまだ残っていて、道路が淡く光っていた。
コーヒーを淹れながら、ぼんやりと湯気を眺める。

胸の奥に、昨日の“いばらの道”という言葉がまだ残っていた。

痛いのに、どこか現実味がある。
あの言葉を聞いた瞬間、自分がもう彼を完全には信じきれていないことを、心の奥で理解していた。

その日、職場ではミスを連発した。

集中できない自分に腹が立って、昼休みに外へ出た。
コンビニで温かいお茶を買い、公園のベンチに腰を下ろす。

缶の表面の熱を手のひらで感じながら、ふと「このままじゃダメだな」と呟いた。

泣くでもなく、立ち直るでもなく、ただ静かに自分を見つめ直したい──
そんな気持ちだった。

帰宅後、私は机の上にノートを開いた。

タイトルを書いた。

「私の気持ちを整えるために」

ページの一番上に、「瞑想・お茶・温活」と書いてみる。
それだけの言葉なのに、少し安心した。
何をすればいいか、少し見えた気がしたから。

夜、湯船にお湯を張って、ゆっくりと浸かった。

水面に浮かぶ湯気がぼやけて、光が柔らかく滲む。
深呼吸をして、頭の中のざわめきを一つひとつ手放していく。

“いばらの道”という言葉が、再び浮かんだ。

でも今は、昨日のように恐ろしい響きではなかった。

「たとえ道がいばらでも、途中で引き返せばいい」
──そんな風に思えた。

湯上がりに鏡を見た。
少しむくんだ顔の中に、疲れとともに小さな覚悟が混じっていた。

「私は、私のために動く」

そう小さく呟いて、ドライヤーのスイッチを入れた。
温風の音の中で、何かが少しずつ整っていく気がした。

布団に入る前、スマホを確認した。

通知はなかった。
でも、もう心臓が跳ねるような痛みはなかった。

深く息を吐いて、目を閉じた。
雨上がりの空気のように、心がほんの少し澄んでいた。


翌朝、カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。

天気予報では雨続きと言っていたのに、
雲の切れ間から少しだけ青空が見えた。
その光が床を照らし、薄いカーテンを通して部屋の空気が少し明るくなる。

私はベッドから起き上がり、深呼吸をした。

昨日よりも胸の奥が軽い。
静かな朝だった。

キッチンで湯を沸かしながら、スマホを手に取る。
画面には通知がなかった。
それでも、昨日までのような焦りはなかった。

自分の中に“待つための場所”がなくなったような気がした。
彼からの連絡を求めるのではなく、
この静けさの中に、自分を取り戻す時間があるのかもしれない。

湯気の立つカップを両手で包み、窓辺に立つ。

ベランダのプランターに、小さな新芽が出ていた。
前回の休日に植えたハーブだ。

ほんの少し顔を出した緑を見つけた瞬間、
なぜだか涙が出そうになった。
目の前の小さな変化に、やっと気づけた気がした。

外から子どもの笑い声が聞こえてきた。
休日なのか、近くの公園から元気な声が響いてくる。

その音を聞きながら、私はふと思う。
恋って、こんな風に静かに“揺れる”んだ。
ドラマのような起伏も、派手な涙もない。
ただ、少しの沈黙と、ほんの少しの痛み。

それでも、今はまだ何かを信じていたかった。

窓の外に目をやる。
遠くの空には、飛行機雲が一本、まっすぐに伸びていた。
どこへ向かうのかはわからない。

でも、あの線を見ていると、自分も少しだけ前に進める気がした。

「今日を、ちゃんと生きよう」

そう小さく呟いた。
その言葉が、部屋の中で柔らかく響いた。

彼のことを思い出すと、まだ胸が少し痛む。

けれど、その痛みが、私が誰かを真剣に想っていた証拠でもある。
あの沈黙の日々を通して、私は自分の心の形を知ったのかもしれない。
誰かに愛されることだけが、幸せじゃない。

自分の幸せを信じられること──
それが、これからの私に必要なものだと思った。

湯気が少しずつ消えていく。
私は残りの一口を飲み干し、カップをそっとシンクに置いた。

部屋の中に、朝の光が広がっていく。
新しい一日が、静かに始まろうとしていた。


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