

健と未来の話をした日から、数日が過ぎた。
仕事終わりの夜、
美咲は部屋の電気を少しだけ落とし、
ソファに腰をゆっくり沈めた。
街の喧騒が遠くでぼんやりと響く。
でもこの部屋の中には、
それが届かないような静けさがあった。
(……なんだろう。今日は落ち着いてるな)
心のどこかが満たされていると、
ふしぎと周囲の音が柔らかく聞こえる。
仕事の疲れが残っているはずなのに、
静かに深呼吸できる夜だった。
ふと、
テーブルの上に置いたノートが目に入る。
白いカバーに指を添えると、
その感触がどこか懐かしく感じた。
(少し……見返してみようかな)
大きな理由はなかった。
ただ、心が自然とページに触れたくなった。
ノートを開くと、
過去数週間の美咲がそこにいた。
“会話が減った気がする”
“なんでこんなに不安なんだろう”
“私ばっかり焦ってる?”
“彼の気持ちが分からない”
その時の字はどこか急いていて、
余白さえ落ち着かない雰囲気があった。
でも、ページをめくるたびに、
言葉が少しずつ変化していく。
“話してよかった”
“ああ、私こんなふうに愛されてたんだ”
“自分の良いところを書いてみた”
“歩幅は違っていていいんだ”
“未来を話せてよかった”
その変化が、
たまらなく愛おしく思えた。
(こんなに揺れてたんだ、私……)
ページをめくりながら、
美咲は自分自身の心にそっと触れているような感覚になった。
悩みながらも、
答えを探して、
ひとつずつ前に進んでいた。
健からの言葉や、
占い師のメッセージや、
自分の書いた文字が
夜の静けさの中で優しく響いてくる。
(あの日の私に、教えてあげたいな……
ちゃんと大丈夫になるよって)
ノートに寄り添いながら、
美咲はゆっくりと微笑んだ。
“ここまで来たんだな”
そんな言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
未来へ向けて歩き出した今だからこそ、
過去の自分がどれだけ頑張っていたのかが分かる。
この夜は、
ただの振り返りではなかった。
美咲が
「今の自分を受け入れる準備ができた」
その証のようだった。
ノートのページが
すこしだけ暖かく見えた。
ノートをめくると、
最初に悩みを綴ったページが目に入った。
“最近、会話が減った”
“LINEが前よりそっけない気がする”
“もしかして…飽きられたのかな”
その文字を見て、
美咲は小さく息をのんだ。
(……こんなふうに感じてたんだ、私)
思い返すと、
あの時の自分は本当に揺れていた。
ちょっと返信が遅れるだけで胸がぎゅっとして、
仕事中でも気がつけばスマホを確認して、
会っている時でさえ
“本当に私のこと好きなのかな”と
心のどこかで怯えていた。
(あのときは……
“愛が減ってる”って思ってたんだよね)
ページの余白に書かれた
震えるような文字が、その証だった。
でも今、読み返すと分かる。
あれは
健の愛が薄れたのではなく、
私の“怖れ”が大きくなっていた だけだった、と。
仕事で疲れてただけかもしれない。
たまたま余裕がなかっただけかもしれない。
むしろ、健の優しさは変わっていなかった。
でもあの頃は
“会話が減った=気持ちが離れた”
と短絡的に結びつけていた。
(不安って、本当に視界を狭くするんだな……)
あの時の美咲は、
恋が落ち着いた途端に
“落ち着いた=冷めた”と受け取っていた。
今は違う。
恋が落ち着くことは、
冷めることじゃない。
“安心が生まれ始めたサイン”だと
今なら理解できる。
(あの頃の私は……
ちゃんと愛されていたのに、
それを受け取る余裕がなかったんだ)
ページに触れる指先が、
そっと震えた。
でも、その震えはもう“怖さ”ではない。
過去の自分を
優しく抱きしめたくなるような、
そんな種類の震えだった。
(大丈夫だよ、って……
あのときの私に言ってあげたい)
返事の速度に怯えなくてもいい。
沈黙に責められていると思わなくていい。
“愛が薄れた”んじゃない。
“気づけなかっただけ”。
ページを閉じると、
美咲の胸の中で
ひとつの点だった不安が
やわらかい曲線に変わっていくのを感じた。
(ちゃんと気づけたから、
私は次に進めたんだよね)
あのざわめきは、
“愛が減ったサイン”ではなく
“自分を知るサイン”だった。
美咲はそっと微笑んだ。
ノートをさらにめくると、
“相手の気持ち”について書き込んだページが目に入る。
文字は整っているのに、
どこか不安で震えているように見えた。
“満たされない気持ちがある”
“SNSの他のカップルみたいに、うまくいってない気がする”
“うちは普通なのかな……?”
(……そうだったな)
あの日の美咲は、
健との関係に“問題がある”と思っていたのではない。
むしろ、
他のカップルと比較する自分に振り回されていた。
仕事の合間に流れるSNS。
旅行写真、記念日、ペアリング、サプライズ。
楽しそうなふたりの写真に触れるたび、
美咲の胸にじんわりとモヤモヤが積もっていった。
(なんで、私ばっかり揺れてるんだろうって……
あのとき思ってた)
でも今なら分かる。
あれは健の問題ではなく、
“自分の幸福基準を見失っていた”だけだった。
美咲はページを眺めながら、
静かにあの日の心情を思い返す。
SNSの向こう側にいる“誰か”が羨ましくて、
“比べてしまう自分”が嫌で、
なのに離れられなかった。
(あの頃の私は……
健にもっと愛されたいんじゃなくて、
“誰かから見ても良い恋愛”をしたかったんだ)
それは、
認められたいとか、
劣等感を埋めたいとか、
そんな感情の延長線だった。
健の気持ちが分からないんじゃなくて、
自分の気持ちが一番分かっていなかった。
(でも、SNSの写真って……
本当の幸せじゃないよね)
今ならそう思える。
他人の笑顔は“外側の一瞬”でしかなくて、
ふたりの関係は“内側の積み重ね”でできている。
ページの文字にそっと触れる。
(私は……
外側の世界に自分を合わせようとしてただけなんだ)
その気づきは、
今になってようやく“優しさ”と一緒に胸に落ちた。
他のカップルと比べなくてもいい。
私たちには私たちのペースがあった。
健の穏やかさは偽物じゃなかったし、
私が感じていた愛も本物だった。
その全部を、
外側の誰かの幸せと比べてしまっていた自分。
(でも……あのとき気づけなかったのは、
私が弱かったからじゃない)
ただ、
“幸せの感じ方”を見失っていたから。
そう思えた瞬間、
過去の自分へのとげとげしさが
すーっと溶けていく。
(大丈夫だよ。
比べてしまうときって、誰にだってある)
ページを閉じると、
胸の奥がゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
ノートをめくる指先が、あるページの前で止まった。
そこには、
美咲が“彼の良いところ”と
“自分の良いところ”を書き出した日の記録が残っていた。
細かく丁寧な文字。
ページの端にはうっすら涙の跡のようなにじみがある。
(ここ……すごく印象的だったな)
あの日、美咲は
“自分の良さなんて書けない”
そう思いながらペンを握っていた。
他人の良いところは数えられるのに、
自分の良いところは見つけられなかった。
(ずっと……自分を責めてたんだよね)
その静かな事実が、
いまの美咲には優しく見えた。
ページにはこう書かれている。
“人の気持ちを丁寧に受け取れる”
“相手を思いやるのが自然にできる”
“誠実に向き合える”
“頑張り屋”
“優しい”
(健くんは……こんな私を見てくれてたんだな)
これまで
“良い彼女じゃないと愛されない”
と思い込んでいたけれど、
本当は、健は
“頑張っているから”好きなのでも、
“完璧だから”好きなのでもなくて、
美咲の素の部分を、
最初からずっと愛してくれていた。
(なんで気づけなかったんだろう……)
胸がじんわり熱くなる。
あの頃の美咲は、
不安のほうを優先していた。
連絡の頻度に怯えて、
返信の速さに心を削って、
沈黙を怖れの材料にしていた。
(私……愛されてないって思い込んでたけど
本当は“自分を信じられなかった”だけだったんだ)
健の優しさはずっとそこにあった。
でも、自分の価値を見失った状態では
受け取ることができなかった。
ページをゆっくり撫でる。
(この“良いところ”を書き出した瞬間……
私、自分を取り戻したんだよね)
涙は出ない。
もう悲しい感情ではないから。
ただ、胸の奥に広がる温かさに、
自然と息が深くなる。
愛された理由は、
“努力の成果”ではなくて、
“私だから”。
頑張ってきたことも、
不器用な優しさも、
人の気持ちを大切にするところも、
全部ひっくるめて美咲そのもの。
(やっと……信じられるようになった)
ページを閉じると、
自分の心にそっと手を置いた感覚になった。
過去の自分を責める気持ちは消えていて、
代わりに
“あの頃も頑張っていたよ”
と優しく言いたくなるような余白が残っていた。
(私、ちゃんと愛されてたんだ)
その確信が、
深い場所で静かに、美しく響いた。
ノートをさらにめくると、
未来について書かれたページが現れた。
丁寧な字で並んだ箇条書き。
その横に健の言葉を書き留めた短いメモ。
“焦らなくていい”
“今日を大切にしたい”
“でも、美咲といる未来はちゃんと考えてる”
ページを見つめた瞬間、
あの夜の空気がふっと蘇ってきた。
(……健くん、あのとき本当に真剣に聞いてくれたな)
あの夜、未来の話を切り出すとき、
美咲の心臓はずっと早く打っていた。
重いと思われたらどうしよう。
急かしていると誤解されたら嫌だ。
怖い。
でも、話したい。
その全部を抱えたまま、
ノートを開いて健に見せた。
(あのときの私は……すごく勇気を出してた)
健も驚いた顔をしていて、
けれど逃げたりはしなかった。
テーブルに置かれたノートに触れる指が
どこか優しかった。
(歩幅を合わせるって、
ああいうことだったんだな)
“歩幅を合わせる”という言葉は、
占い師から聞いたときはまだ抽象的だった。
でもあの夜、
ふたりでノートを見ながら
未来の話をしたとき──
歩幅の意味がはっきり分かった。
美咲が未来を見たい気持ちも、
健が今を大切にしたい気持ちも、
どちらも間違いではなかった。
ただ、立っている場所が少し違っていただけ。
(ズレじゃなくて……
“差”だったんだよね)
その差を責めず、
押しつけず、
歩み寄ろうとした瞬間──
ふたりは同じ方向を見られるようになった。
ページの余白に書かれた自分の文字を読む。
“未来は押さない。
でも、一緒に見たいときは言葉にしていい。”
(あの夜、私はただ“未来を話したかっただけ”だったんだ)
結婚の時期を決めたかったわけでも、
形を急がせたかったわけでもない。
“美咲という人間の人生”を
健にも隣で見てほしかった。
その願いを
初めて言葉にできた日だった。
そして健もまた、
“落ち着く”の意味を
“安心して未来まで一緒にいたい”に変えてくれた。
(あれは……ふたりの恋が再スタートした夜だったな)
ページを閉じると、
胸の奥にゆっくりと温かさが広がっていった。
4つのページを一通り読み返したあと、
美咲はそっとノートを閉じた。
ふう……と息を吐くと、
胸の奥で何かがゆっくりほどけていく感覚があった。
(不思議だな……
4つの悩みって、全然違う内容だったのに)
連絡が減った不安。
SNSでの比較。
自己肯定感の揺れ。
未来へのすれ違い。
ひとつひとつは別の出来事。
別の痛み。
別の迷い。
でも、美咲は静かに目を閉じた。
(全部……同じ場所から生まれてたんだ)
胸の真ん中あたりが、
じんわりと熱くなる。
すべての悩みの底には、
たったひとつの願いがあった。
「大切にされたい」
「愛されていると感じたい」
「安心したい」
それだけだった。
連絡が減ったとき、
“見捨てられるかもしれない”と怯えたのも。
SNSで他のカップルを見て、
自分たちの関係が劣っている気がしたのも。
自分に自信がなくて、
“私なんて”と落ち込んだのも。
未来の話が少しずれただけで、
心がざわついたのも。
ぜんぶぜんぶ、
“愛を失いたくない”という気持ちの延長線だった。
(私……ずっと怖かったんだ)
愛されなくなることが。
誰かに置いていかれることが。
自分だけが頑張っているように見える瞬間が。
(でも……)
目を開くと、
部屋の空気が少しだけ明るく見えた。
(本当は、ずっと愛されてたんだよね)
揺れていたのは“愛”ではなく、
“私のほうだった”。
外側の出来事に反応して、
自分の価値を揺らして、
不安を膨らませていただけ。
愛そのものは消えていなかった。
変質もしていなかった。
静かにそこに在り続けていた。
(そのことに気づけたから……
私はようやく落ち着けたんだ)
ページを重ねて閉じたノートが、
今はまるで“過去の私との和解”の証のように見えた。
4つの悩みは違って見えていただけで、
どれも“同じ根”から咲いた
ひとつの枝葉だった。
そしてその根を優しく掘り当てられたからこそ、
美咲の心は今、ようやく静かに整い始めていた。
(もう……自分を責めなくていいんだ)
そう思えたとき、
胸の奥で温かいものが“とくん”と脈打った。
ノートを閉じたあとも、
美咲はしばらくその上に手を置いたまま動かなかった。
心の奥で、
ゆっくり沈んでいた何かが
ふわりと浮かび上がってくるような感覚があった。
(……私、ずっと自分を責めてたんだな)
不安になった自分を。
比較して落ち込んだ自分を。
勝手にひとりで焦っていた自分を。
未来の話で少しズレただけで
寂しさに支配されてしまっていた自分を。
(全部……悪いことだと思ってた)
もっと強くなりたかった。
もっと余裕のある“いい彼女”でいたかった。
もっと信じられたはずだと、
何度も心の中で自分を責めてきた。
でも今、美咲は静かに気づいていた。
(あの頃の私……悪くなんてなかったんだ)
不安になったのは、
健を大切に思っていたから。
比較してしまったのは、
自分の恋をもっと大事にしたかったから。
焦ってしまったのは、
失いたくなかったから。
少しのズレに寂しくなったのは、
未来を一緒に見たいと願っていたから。
どれも、
どれひとつとして、
“弱さ”でも“わがまま”でもなかった。
ただ、
“愛していた証拠”。
(ああ……そうか。私、ちゃんと頑張ってたんだ)
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、
目の奥がじんわり熱くなる。
涙はこぼれない。
もう悲しくない。
痛みではなく、
あたたかい赦しそのものだった。
ノートに書いた文字──
ぎゅっと握りしめたペン跡、
焦りがにじむ線、
落ち着いた後の柔らかい曲調の文字。
その全てが、
“過去の美咲”の懸命さを物語っていた。
(あのときの私は、
あのときの私なりに……
一生懸命、恋を守ろうとしてたんだ)
今、ようやくそう思える。
自分を責め続けていた頃には見えなかった優しさが、
今の美咲にははっきり見える。
自分の心のつまずきも、
揺れた夜も、
SNSの渦に巻き込まれた日も、
未来を語る勇気が出た瞬間も、
全部がひとつの線でつながり、
今の自分へ続いていた。
(過去の私……
もう、責めたりしないからね)
その言葉が心の中心に落ちていったとき、
胸の奥が軽くなった。
“ときめきの先にある安心”を
ようやく受け取れる場所まで来たんだ。
美咲は静かに目を閉じ、
そっと息を吸った。
そして、少しだけ微笑んだ。
(うん……私は今、ちゃんと幸せになれてる)
あの頃の自分が、
ずっと願っていた場所に立っている。
そんな確信が、
静かに、深く、胸に灯った。
ノートを閉じると、
部屋の空気がふわりと変わった気がした。
窓の外には夜の街の灯りがにじんでいて、
その光がゆっくりと揺れている。
まるで、今日の美咲の心の動きに
そっと寄り添ってくれているようだった。
テーブルの上に置かれたノートは、
ただの紙切れの束ではなくなっていた。
そこには
不安に揺れた日も、
迷いにのみ込まれそうになった瞬間も、
落ち込んだ夜も、
勇気を出して未来を語った日も、
すべてが並んでいた。
(……全部、大事な日だったな)
“辛かった”と一言で片づけられるものじゃない。
“弱かった”と責める必要もない。
どの日も、
あの日の美咲が精一杯に生きていた証だった。
ソファに背を預け、
窓の外の明かりを見つめながら
美咲はゆっくりと息を吸い込む。
(ここまで来られたんだな、私)
この数週間、
美咲の心の中ではいくつもの揺れがあった。
でもその揺れひとつひとつが、
今の美咲へと導いてくれた。
愛されたいと思ったこと。
不安になってしまったこと。
比較して苦しくなったこと。
自信をなくしてしまったこと。
未来に迷ったこと。
それらすべてが
“今の私に必要な通過点だった”と
胸の奥が静かに教えてくれる。
(未来の話をしたあの日から……
私はもう、前とは違うんだ)
不安をごまかさない。
相手の気持ちを決めつけない。
自分の価値を見失わない。
未来を語ることを怖がらない。
そんな“新しい美咲”の輪郭が
少しずつはっきりしていく。
そっとノートに手を置く。
(……ありがとう。ここまで一緒にいてくれて)
それは健に向けた言葉でもあり、
過去の自分への言葉でもあり、
未来の自分への言葉でもあった。
立ち上がり、
部屋の明かりをひとつだけ残してスイッチを切る。
静かな暗がりの中、
ほんの少しだけ胸が軽くなった。
(この続きは……あの人に伝えたいな)
そう思えた瞬間、
自然と微笑みが溢れた。
今の美咲は、
過去を抱きしめられるだけじゃなく、
未来へ向けて歩き出す準備が、
もう十分に整っている。
ノートをそっと抱えながら
寝室へ向かう足取りは、
どこかやわらかくて、
どこか凛としていた。
この夜を越えたら、
美咲の世界はまたひとつ広がっていく。





コメント