
美咲は、久しぶりに穏やかな気持ちで朝を迎えた。
カーテン越しの光が優しく差し込んで、
昨日まで胸の中で重たく沈んでいたものが、
少しだけ軽く感じられた。
テーブルの上には、開きっぱなしのノート。
昨夜、涙を落としながら書いた“最近変わったこと”と“どう感じたか”。
そのページを眺めると、不思議と心が静まった。
(私…やっと自分の気持ちが分かったんだよね)
“寂しい”
“怖かった”
“置いていかれたくなかった”
その言葉たちは、
美咲が長い間向き合えずにいた本当の本音だった。
深呼吸すると、胸の奥がゆっくりと開いていくように感じた。
===
通勤電車に揺られながら、美咲は窓に映る自分の顔を見つめた。
昨日より、少しだけ柔らかい。
それに気づいて、思わず小さく笑ってしまう。
(昨日、健くん…カイロくれたんだよね)
(あれ、ほんとに優しかったな…)
カイロひとつ。
たったそれだけなのに、
美咲の中では“繋がっている”感覚を取り戻すきっかけになった。
スマホを開くと、健からのメッセージが一件届いていた。
「今日は寒いから気をつけてな」
短いけれど、そこには確かに“見てくれている気配”があった。
(優しいなぁ…)
(こんなふうに、健くんはいつも気遣ってくれてたよね)
じんわりと胸があたたかくなった。
===
仕事の合間、休憩室でコーヒーを飲みながら、
美咲は昨日とは違う落ち着きを持ってスマホを見つめた。
昨日までのような苦しさは、もうない。
「置いていかれるかもしれない」という恐怖も薄れている。
あのノートのおかげで、“感情が迷子”になることはなくなった。
でも、
それでも心の奥に、
ひとつだけ消えない“問い”が残っていた。
(…健くんは、どう思ってたんだろう)
美咲の不安は整理された。
でも、彼の不安や気持ちは、まだ分からないまま。
どれだけ優しくされても、
どれだけ会話が戻っても、
“相手の気持ちの温度”だけは、そこに影のように残っている。
(私ばっかり不安になってたのかな…
健くんはどうだったんだろう)
その問いは苦しさよりも、
“知りたい”という静かな願いに近かった。
健の心を疑いたいわけではない。
ただ、もっとちゃんと向き合いたい。
ふたりの未来に向けて、踏み出したい。
(私のこと、どう思ってるんだろう…)
その言葉が胸の奥で柔らかく波紋を描いた。
美咲はカップの温度を手に感じながら、
ゆっくりと目を閉じる。
昨日ゆるんだ心の奥から、
また新しい物語が静かに動き出そうとしていた。
昼休み、美咲は香里とコンビニで買ったサンドイッチを食べながら、
いつものように軽い雑談をしていた。
「そういえば昨日、彼が迎えに来てくれてさ〜」
香里は嬉しそうに笑う。
「いいなぁ、優しいね」
そう返しながら、美咲も微笑む。
心は安定している。
先週までのように胸が締めつけられることもない。
比べて落ち込むことも、もうほとんどない。
…はずだった。
でも、ほんの少しだけ。
胸の奥がざらっとした。
(うちは…最近、私から行くことが多かったな)
そう思った瞬間、
わずかに息を吸う音が深くなった。
香里は気づかずに話を続ける。
「この前もね、記念日だったからってケーキ用意しててくれて…」
(記念日…そういえば、私たち最近そういうのしてないな)
別に、記念日を祝わない=愛がないではない。
そんなことは分かっている。
それでも、ほんの一瞬、心に影が差した。
===
休憩が終わり、席に戻る途中。
同僚のグループLINEに、友達が彼氏と写った写真が流れてきた。
“1年記念日でした♡”
写真は楽しそうで、
お互いが幸せそうで、
誰が見ても素敵なカップルだった。
(…いいな)
その短い言葉は、羨望でも嫉妬でもない。
ただ自分の胸に小さなしずくが落ちたような感覚。
(でも…比べてもしょうがないよね)
そう思って、スマホを閉じようとしたとき。
ふと、別の考えがよぎった。
(私、何と比べてるんだろう?)
友達の恋でも、同僚の恋でもない。
ドラマの中のカップルでもない。
比べているのは
“相手の心が見える恋”と、
“今の自分たち”
だった。
その違いに、美咲ははっとした。
(そうか…
比較して苦しくなるのは、
健くんの“本当の気持ち”が分からないからなんだ)
それは昨日気づいた不安とは違う。
“拒絶されるかもしれない恐怖”ではなく、
“彼の温度が読めない空白”だった。
(私の気持ちは整理できたのに…
健くんの心だけ、まだ輪郭がぼやけてる)
そこに軽い不安が浮かぶ。
前のように心を締め付けるほどではないけれど、
胸の奥に確かに“説明のつかない違和感”があった。
比較してしまうのは、弱いからじゃない。
恋に依存しているからでもない。
“相手の心に触れたい”と願ってしまうから。
美咲は自分の胸に手を当て、
静かに息を吸った。
(私…知りたいんだ。
健くんの気持ちを。)
気づいてしまったからこそ、
次に進む必要があるのだと分かった。
その日の夜。
美咲は仕事を終え、軽く夕食を済ませたあと、
リビングのソファに腰を下ろしてスマホを手に取った。
(今日は…健くんに、少し話せるかな)
不安はもう暴れない。
大げさな“怖さ”もない。
ただ、彼の心に近づきたいだけ。
それでも、いざメッセージを送ろうとすると、
胸のあたりがわずかにざわつく。
(聞きたいけど…重くならないかな)
少し迷って、
美咲はいつものように自然な一言を送った。
「今日も寒いね。朝のメッセージありがとう」
数分後、健から返信がきた。
「うん、今日は冷えるね」
短いけれど、やわらかい文字。
美咲は小さく笑った。
やっぱり、優しい。
返そうか迷っていると、
健から珍しくメッセージが続いた。
「最近忙しくてさ。美咲はどう?」
嬉しかった。
でも、その“忙しい”の一言に、
美咲の中でふっと何かが引っかかった。
(……忙しい、か)
彼の気持ちを聞きたいのに、
その先の言葉が見えない。
「私はね——」
と書きかけて指を止めた。
(どう思ってるのか、聞いてみたいけど…
『私たち、最近どう思ってる?』なんて聞いたら、
重いと思われるよね)
代わりに、当たり障りない言葉を送る。
「私は落ち着いてきたよ。無理しないでね」
数分後、
健からの返事。
「ありがとう。美咲は優しいな」
その言葉は嬉しい。
でも、胸の奥で、微かな空白が残る。
“優しい”と言われるのは幸せだ。
だけど、その先にあるはずの
「今、どう思ってる」
という“本音の温度”には触れられない。
(健くんは、私との今をどう感じてるんだろう)
自分の気持ちはノートに書いて整理できた。
昨日より落ち着いている。
安心もある。
でも、健の心だけがまだ手探りのまま。
美咲はスマホを置き、
静かな部屋のなかで膝を抱えた。
(平気、だよね?
私たちのこと、嫌になったとかじゃないよね?)
そんな弱い気持ちは、
責めたいわけでも疑いたいわけでもなく、
ただ触れられない“心の距離”の輪郭だった。
ふと、出会ったばかりのあの頃が思い浮かぶ。
楽しそうに笑うふたり。
健の横顔はいつも優しい。
(あのころと、健くんは変わってない。
変わったのは…きっと私の受け取り方)
そう思えているのに、
今の気持ちだけは、どうしても知りたかった。
スマホが光る。
健からのメッセージだった。
「今日は早く寝るよ。また明日ね」
美咲はゆっくりと画面を閉じた。
(“また明日”って、変わらない言葉なのに…
どうしてこんなに、知りたくなるんだろう)
それは、昨日とは違う種類の不安。
“失う怖さ”とは違う。
「本音を知りたい」という正直で前向きな欲求。
その気持ちが静かに美咲の胸を満たしていく。
そして美咲は気づいた。
(私、ちゃんと話したいんだ。
もう逃げずに、健くんの気持ちを知りたい)
週末の午後。
美咲は先週と同じ、駅前のビルの前に立っていた。
一度来ただけなのに、この建物を見ると
胸の奥が少しだけあたたかくなる。
話を聞いてくれる場所があるというだけで、
どれほど心が救われるのかを知ったから。
階段を上り、前回と同じドアの前で軽く深呼吸する。
ノックの音が響くと、落ち着いた声が返ってきた。

どうぞ、お入りください
美咲はそっと扉を開けた。
照明の色も香りも、前回と同じ。
占い師は穏やかな表情で迎えてくれた。



いらっしゃい、美咲さん。今日も来てくださってありがとうございます
こちらこそ…よろしくお願いします
椅子に腰を下ろすと、
胸の奥に張りついていた緊張が少しずつほどけていった。



今日はどんなお話を聞かせていただけますか?
占い師の声はやわらかく、
急かすでもなく、探るでもなく、
“あなたのペースでいい”と伝えてくれるようだった。
美咲はゆっくりと言葉を選ぶ。
前より気持ちは落ち着いたんです。
自分の気持ちも整理できて…
健くんの優しさにも気づけて…



ええ、それは素晴らしいですね
でも…
美咲は指先を見つめた。
健くんが最近どう思っているのか…
それが分からないんです
占い師は頷く。



分からない、というのは?
私のこと、どう思ってるのかなとか…
“今の関係”をどう捉えてるのかなとか…
聞けばいいって分かってるんですけど、
言葉にしてくれないから…
そこまで言うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
周りを見て、比べちゃうんです
友達が“迎えに来てくれた”とか“記念日を祝ってくれた”とか…
そんな話を聞くと…
健くんの気持ちの“温度”が見えなくて…
占い師は少しだけ目を細め、
美咲の言葉をそのまま受け止めるように静かに言った。



“満たされない”気持ちは、
彼の愛が足りないからではありません。
美咲の視線が上がる。



あなたが“自分の愛し方”を
少し忘れてしまっているからかもしれません。
美咲は息を飲んだ。
胸の奥に、静かに落ちていく言葉。
占い師は続ける。



他の誰かの恋と比べると、
どうしても“見えやすい部分”ばかりが目に入りやすくなります。
でも、それはあなたの関係とは別の物語です。
……別の物語



はい。
美咲さんと健さんの物語は、
“ふたりだけの歩み”でできています。
見た目の派手さではなく、
日常の積み重ねや静かな気遣いで。
美咲は思い出す。
昨日の、“カイロいる?”の一言。
あれは何よりも健らしい優しさだった。
占い師が静かに問いかける。



美咲さんは、健さんの“行動の優しさ”を
どう感じますか?
美咲は胸に手を置いた。
…あったかいです。
言葉より、安心するというか…
落ち着けるというか…



その感覚こそ、彼の気持ちです。
その言葉に、
美咲の視界がじんわりと滲んだ。
(そうか…
“言葉じゃない愛”もあるんだ)
気づけば、美咲は涙を一筋こぼしていた。
占い師はそっと言った。



健さんの気持ちを知りたいなら、
まず“ふたりの歩み”を見つめてみましょう。
思い出を整理するように。
思い出…



はい。
写真やメッセージを並べるだけでいいんです。
そこに、彼の心が必ず映っていますから。
美咲はゆっくりと頷いた。
胸の奥のざらつきは、
少しずつ形を変えていく。
不安ではなく、
“理解したい”という前向きな気持ちへ。
夕方。
鑑定を終えて帰ってきた美咲は、
コートを脱ぐより先にスマホを手に取った。
(…思い出を並べるだけで、彼の心が見える)
占い師の言葉が、胸の奥でゆっくり響いている。
ソファに座り、深呼吸してから
写真フォルダを開いた。
画面の中に現れたのは、
ほんの数秒前まで忘れていたはずの光景たち。
美咲は無意識に指を止めた。
最初の写真は——
初めてふたりで行ったカフェのテーブル。
頼んだケーキが偶然同じだったことを、
楽しそうに笑い合った日の写真。
(懐かしい…)
胸に小さな灯りがともる。
次に、旅行で撮った夕焼け。
その横には、健が撮ってくれた美咲の横顔。
風が強くて髪が乱れているのに、
健は「この写真、好きだな」と言ってくれた。
(こんなこともあったね…)
指を滑らせていくと、
夜に小さな喧嘩をした日のメモが出てきた。
「言いすぎた、ごめん。」
健が送ってきた短いメッセージ。
あの日、美咲は泣きながらその言葉を読んだ。
(ちゃんと向き合ってくれたんだよな…)
さらに進む。
次の写真は、美咲の誕生日の夜。
家のテーブルに広げられた小さなケーキと、
不器用な文字で書かれた手紙。
健が慣れない字で一生懸命書いたことが一目で分かる。
(これ…忘れてた。忙しくて、それどころじゃなくて)
思い出すほどに胸が温かくなる。
時々泣いて、時々笑って、
ふたりで積み重ねてきた時間が
画面いっぱいに広がっていく。
スクロールする指が止まったのは、
美咲が体調を崩した日の写真。
白いカップに入ったスポーツドリンクと、
タオルをたたんで持ってきてくれた健の手だけが写っていた。
(あ…これ、あの日)
美咲は思わず胸を押さえた。
涙がこぼれそうになる。
言葉が少ない人だけれど、
健はいつだって、
こうして“行動”で寄り添ってくれていた。
(私…ずっと気づかなかった。
言葉だけで確かめようとしてたんだ)
画面に浮かぶ写真を見つめながら、
静かに、でも確実に心がほどけていく。
美咲はフォルダの別の場所から動画も開いた。
二人で歩きながら撮った、
なんでもない休日の動画。
風が強くて、声がほとんど聞こえない。
でも、健が美咲の肩をそっと引き寄せている。
その仕草だけで、
どれだけ大事にされていたかが伝わる。
美咲は思わず涙をひとつ零した。
(“言わない”から見えないと思ってた。
でも、ずっと見えてたんだ。
健くんの気持ち…こんなにたくさん)
そして、ある気づきが胸に浮かぶ。
ふたりの恋は、
言葉よりも行動で育ってきたんだ。
写真は嘘をつけない。
積み重ねも、誤魔化せない。
スクロールするごとに、
美咲の中で“比較の影”が薄れていく。
誰かの恋と比べる必要なんてなかった。
ふたりの歴史は、ふたりのもの。
美咲は画面を見つめながら、
静かに笑った。
(大丈夫。
ちゃんと愛されてきた)
胸の奥が、今日いちばん柔らかくなった瞬間だった。
アルバムを見終わったあとも、
美咲はしばらくソファから動けなかった。
心がふわふわしている。
涙が出たのに、苦しくない。
寂しさがあったはずなのに、心が軽い。
(こんなに…あったんだね)
画面に映るひとつひとつの景色が、美咲の胸を温めていた。
言葉にされなかった優しさ。
気づかなかった気遣い。
忘れかけていた思い出。
それらが“ひとつの線”として繋がり始めていた。
(健くんが言わなくても…
気持ちはちゃんと、ここにあったんだ)
美咲はそっとスマホを置き、
テーブルの上に両手を置いた。
瞼を閉じると、次々に思い出が浮かぶ。
===
仕事帰りの雨の日。
急に降り出した土砂降りの中、
傘を持って駅まで迎えに来てくれた健。
あの日、美咲は
「え、なんで?突然!」
と驚いたけれど、
健はただ笑って、
「迎えに行ったらダメだった?」
と照れくさそうに言った。
(あれだって…言葉じゃない愛だよね)
===
喧嘩した日の夜、
お互いに口数が少なくなっていた時。
帰り道の交差点で、美咲の手をぎゅっと握り直してくれた。
「ごめん」
その一言はたしかに言った。
でも本当の“気持ち”は、
あの手の温度の中に全部入っていた。
(あの時、気づけてなかったな…)
===
旅行先で迷子になった夜。
テンションが落ちていた美咲を見て、
「今日の夜景、絶対きれいだぞ」
と言いながら道を探し回ってくれた健。
夜景に着いた瞬間、
美咲が予想以上に喜んで笑ったとき、
健は少し誇らしげに笑っていた。
(健くんは、私を笑わせようとしてくれてた)
===
断片的な優しさのひとつひとつは、
今までただの思い出だった。
けれど今は違う。
過去の写真やメッセージと重なって、
“彼の気持ち”という、
ひとつの大きな形に変わっていく。
美咲はゆっくり目を開けた。
「言ってくれないから、不安になる」
そう思っていた。
でも、違っていた。
本当はずっと言ってくれていた。
言葉じゃなく、“行動”で。
美咲は胸の奥をそっと押さえた。
(私…気づくのが遅かっただけなんだ)
そう思った瞬間、
昨日まで胸にあった“空白”が
じわりと温かさに変わっていく。
その気づきの中で、
静かに、自然に、
ある思いが浮かんだ。
(私も…もっと、こういう愛し方をしたい)
“相手の気持ち”を知ることは、
“自分の愛し方”を知ることでもある。
美咲はそっと微笑んだ。
(健くんの気持ち、ちゃんと見えるようになりたい)
ノートも、鑑定も、アルバムも。
すべてはそのために必要なプロセスだった。
そして美咲は気づいていた。
これは終わりじゃなくて、
“理解が深まるための途中”なのだと。
思い出アルバムを閉じたあとも、
美咲の胸には温かさが残っていた。
健の言葉じゃない愛。
写真に写っていたあの日の笑顔。
何気ない動画のなかにあった、
健の手の向きや、歩幅の合わせ方。
すべてが一本の糸のようになって、
美咲の胸につながっていた。
(…ありがとう、健くん)
そう呟いた瞬間、
画面に通知が光った。
“健:今日、もう少しだけ話せる?”
美咲の指先が止まる。
平日夜の彼からのメッセージは珍しい。
(どうしたんだろう…)
少し胸が高鳴りながら、美咲は返信した。
“美咲:うん、大丈夫だよ。どうしたの?”
すぐに既読がつく。
でも少し間があってからメッセージが届いた。
“健:なんとなく…声聞きたくなった”
画面を見たまま、美咲の呼吸がふっと揺れた。
それは、今までも何度か言われた言葉だ。
だけど今日は、まったく違う響きで胸に届く。
(…そっか)
“相手の気持ちを知りたい”と悩んでいたのは
美咲ひとりじゃなかったのかもしれない。
美咲は、ゆっくり深呼吸をしてから
電話のアイコンをタップした。
数秒のコール。
そして、声。
「……美咲?」
(あ、この声…)
耳に届いた瞬間、
胸の奥に柔らかい安心がふわっと広がった。
「どうしたの?」
美咲ができるだけ自然に聞くと、
健はちょっと照れたように笑う声で言った。
「なんか…美咲、元気かなって。
最近ちょっと疲れてたからさ」
美咲は思わず、
ソファの背にもたれたまま微笑んでしまった。
(気づいてたんだ…)
「うん。今日は大丈夫だよ。
色々あったけど、心は落ち着いてる」
「そっか。ならよかった」
健の声はいつもより少し明るかった。
その変化を、美咲はちゃんと受け取れるようになっていた。
会話は取り立てて特別なものではない。
仕事のこと、週末の予定、些細な愚痴。
それだけなのに、胸の奥がずっと温かかった。
(これだ…
これが、私が欲しかった“温度”なのかも)
「そういえばさ」
美咲はふと思い出して言った。
「この前、アルバム作ってたの」
「アルバム?」
健が少し驚いたように声を上げる。
「うん、私たちの思い出の写真。
…見てほしいなって思って」
一瞬の沈黙。
でも、すぐに返ってきた声は柔らかかった。
「…見たい。
美咲が作ったの、ちゃんと見たい」
その一言で、
胸の奥が“とくん”と大きく跳ねた。
それは
「ちゃんと向き合いたい」
「一緒に振り返りたい」
という、彼なりの愛情だった。
「じゃあ今度、一緒に見ようね」
「うん。楽しみにしてる」
通話を終える頃には、
部屋の空気が少し明るくなっていた。
画面が暗くなると、美咲は胸に手を当てた。
(あぁ…繋がってる)
昨日までは、
“言ってくれない”
“分からない”
と思っていたのに。
今日は違う。
言葉の奥にある“気持ちの形”が、
手に触れるように感じられた。
美咲は目を閉じて、
ひとつ息を吸った。
(私…健くんの気持ち、
ちゃんと受け取れるようになってきた)
その気づきが、胸の内側で
静かに灯り続けていた。
通話を終えたスマホの画面が暗転し、
部屋の静けさが戻ってきた。
美咲はソファに沈み込んだまま、
胸の上に手を置いてゆっくり息を吸った。
(……なんか、あったかい)
健の声が耳の奥に残っている。
「声、聞きたくなった」
「元気かなって思って」
「アルバム、見たい」
ほんの数分の会話だったのに、
その言葉の余韻が胸の奥にずっと灯り続けていた。
(言葉、ちゃんとあったんだ)
前は聞こえなかっただけ。
心がざわざわしていて、
不安のほうが大きくて、
優しさの温度に気づけなかっただけ。
でも今日は、
彼の声の小さな震えまで
すっと胸に入ってくる。
美咲は、ふと思う。
(私…やっと“受け取れる”ようになってきたんだね)
不安を整理して、
過去を振り返って、
健の気持ちの形を見つけて。
そのすべてのプロセスが、
美咲の心を優しく整えていった。
そしてその整った心が、
彼の言葉をちゃんと受け止めている。
(こんなふうに感じられるなんて、
少し前の私なら信じられなかったな)
美咲は小さく笑った。
でも——
胸の奥には、もうひとつの“静かな問い”が生まれていた。
(……ねぇ、健くん。
あなたから見た私は、
どんなふうに見えてるんだろう?)
健の気持ちを理解しはじめたことで、
ふと浮かび上がってきた新しい疑問。
自分がどう愛されてきたかは、
アルバムや思い出が教えてくれた。
でも、
「私は、ちゃんと愛されるにふさわしいと思えているのかな?」
「私は、自分をどう愛してあげたいんだろう?」
その問いは、
これまで胸の奥にしまっていたものだった。
恋の不安が落ち着いて初めて、
静かに姿を現した“自分への問い”。
健への想いが深まるほど、
自分自身への視線も必要になる。
美咲はそっとソファから立ち上がると、
テーブルの上に置いたノートを手に取った。
(次は……
“私の気持ち”と向き合う番かもしれない)
その呟きは、誰に聞かせるわけでもない。
でも、美咲の胸の中で確かな力を持って響いていた。
夜の部屋に灯る小さな照明の下で、
美咲はゆっくりとページを開く。
彼の気持ちが見えた今、
次に見つめるべきは自分自身。
静かな夜が、その始まりを優しく包んでいた。












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