ときめきの静かな再生【#1】─消えた気配の理由─

ときめきの静かな再生【#1】─消えた気配の理由─

休日の朝。
少し寝坊気味に起きた美咲は、ぼんやりとした頭を抱えたまま、リモコンに手を伸ばした。
スイッチを押すと、テレビには週末恒例の情報番組が流れ始める。

「交際3年でもラブラブの秘訣とは?」

明るいテロップが画面の下を通り過ぎ、スタジオではコメンテーターが笑顔でトークを弾ませていた。
VTRに切り替わると、30代のカップルが仲良く並んで座り、お互いの“好きなところ”を照れくさそうに話している。

「最初と変わらず、大切にしてくれてるって感じるんです」
「彼女の気持ちに寄り添えるよう、毎週デートプランを考えてます」

美咲は、マグカップを両手で包み込みながら、静かに画面を眺めていた。
「いいなあ…」とつぶやくほどではない。
でも胸のどこかが、きゅっと縮まる感覚があった。

(私たち、最近こんなふうに笑ってたっけ…?)

思わず心の中で問いかける自分がいる。

テレビをBGMのように流しながら洗濯物を畳んでいると、
テーブルに置いていた雑誌がぱらりと開いた。
視界に入ったページには、こんな見出しが踊っていた。

「彼が冷めているサイン10選」
「長続きカップルは“会話習慣”が違う」

意図せず目が止まり、無意識に読み始めてしまう。
“返信が短い”“デートが義務的になる”“真剣な話を避ける”
そんなワードに触れるたび、美咲の心に、知らず知らずのうちに小さな影が落ちていく。

(あれ…健って、最近どうだっけ…?)

深入りするつもりはない。
でも、一度気になり始めると、ふとした瞬間に頭の隅に引っかかる。

スマホが震え、SNSの通知が表示された。
開くと、友人が彼氏と箱根旅行へ行ったという投稿が載っている。
写真には、温泉旅館の夕食と、仲良く浴衣姿で並ぶ二人。

(いいね…こういうの)
(私たちは最近、遠出どころか近所のショッピングモールばかりだな)

心のどこかで軽くため息をついた。

職場でも、昼休みに同僚が楽しそうに話していた。
「彼、毎日迎えに来てくれるんだ〜。最近は料理にもハマってさ…」

笑いながら話す同僚の横顔を見て、美咲は「いいな」と思うより先に、胸の奥がそっと冷えていくような感覚を覚える。

(比べたいわけじゃないのに…)
(気づいたら、周りの幸せばかり目に入る)

誰も悪くない。
健が冷たいわけでもない。
でも、世界が“あたたかい恋”を見せれば見せるほど、
自分の恋の温度だけが少し低く感じてしまう。

(最近、うちはどうなんだろう…)

その問いはまだ、煙のように形が曖昧で、言葉にできるほどはっきりしていない。
だけど、確かに“何か”が胸の中でざわつき始めていた。

テレビの笑い声は軽やかに響き続けている。
でも美咲の心には、じんわりとした冷たい風が吹き始めていた。


翌週の平日。
少し遅めに会社を出た美咲は、冷たい夜風に肩をすくめながら駅へ向かった。
仕事の疲れと軽い眠気が混じり合うような、ぼんやりした帰り道。

電車に乗り込むと、ちょうど二人掛けの座席が目に入った。
そこには、並んで座るカップル。
会話はほとんどしていない。

ただ、女性が少し眠たそうにもたれかかると、
男性はそっと彼女の肩を支えるように背中へ手を添えた。
それだけの動作なのに、ふたりのあいだに流れる空気はやわらかく、あたたかかった。

(…いいな)

美咲は無意識に視線を逸らした。
妬ましいわけでもないのに、胸の奥がふっと沈んだ。

電車が揺れると、座席のカップルは身体を近づけるように自然と寄り添った。
まるで小さな世界を共有するように、同じ呼吸でそこにいる。

(私たち、最近こんなふうに寄り添ったりしたっけ…?)

ふとそんなことを考えてしまう。

目を閉じて、ここ数週間を思い返す。
週末のデートはコンビニで買ったコーヒーを飲みながら公園を散歩。
その前はショッピングモールでウィンドウショッピング。
過ごす時間は嫌じゃない。むしろ心地いいはずなのに。

(なんか…距離を感じるようになったのは、いつからだろう)

電車が次の駅に止まり、周囲のざわめきが耳に入る。
ホームに降りると、カップルたちが目の前を通り過ぎていく。
手をつないで笑い合いながら歩く二人。
仕事帰りらしき夫婦が、どちらともなくペースを合わせて並んでいる。

何でもない光景のはずなのに、今日はどうしても美咲の心にひっかかった。

(こういう自然な“近さ”、私たちにもあったよね…)
(健くん、最近は少し避けてる…とかじゃないよね?)

思考が勝手に暗い方向へ引っ張られる。
否定しようとすると余計にざわつく。

歩きながらスマホを開くと、健とのLINEトーク画面が目に入った。
直近のやり取りは、

「おつかれ」

「今日は早く寝る」

「了解」

短い言葉が並んでいて、美咲は思わず画面を閉じた。

(喧嘩したわけじゃない)
(嫌われるようなこともしてない…はず)

でも、どこかが違う。
何が違うのかまでは、まだ分からない。

もう少し歩いた先の横断歩道で立ち止まったとき、
信号待ちしているカップルの笑い声が聞こえてきた。

「ねぇねぇ、今日の上司がさ〜」
「またあの人?大変だね」

ただの雑談だ。
でも、聞いていると胸の奥が少し痛む。

(私たち、最近こういう他愛ない話も減ったな…)

信号が青に変わって、周囲の人たちが歩き出す。
その流れに合わせて歩きながら、美咲はぽつりと心の中でつぶやいた。

(別に比べたいわけじゃないのに…
なんでこんなに、周りの幸せばかり目に入るんだろう)

その疑問は、もう煙のような曖昧さではなかった。
はっきりと“さみしい”と名前のついた感情だった。

そして美咲は、ようやく気づき始めていた。
自分は“健との距離”に怯えていることに。

ただそれをどう扱えばいいのか、まだわからないまま——
夜の街を、ゆっくりと帰っていった。


その日の夜、美咲はいつものように夕食を済ませ、ソファに身を沈めていた。
部屋の明かりは柔らかく灯っているのに、心だけがぽつんと取り残されたように感じる。

テレビをつける気にもなれず、無音の部屋にスマホの画面だけが淡く光る。

健とのLINEを開き直してみる。
そこにあるのは、やっぱり短いメッセージの連続だけ。

「おつかれ」
「今日は早く寝る」
「了解」

本当に、ただそれだけ。

(別に、不自然ってほどじゃない。でも…)

やっぱり寂しい。

美咲はひざを抱えながら、画面を見つめた。

SNSを開くと、楽しそうな投稿が流れてしまうから開きたくない。
かといって閉じていると、今度は自分の心の声がはっきり聞こえてきてしまう。

(どうしてこんなに苦しいんだろう…
健くんを責めたいわけじゃないのに)

ふと、スマホが震えた。

──通知:健

胸が跳ねる。

画面を開くと、たった一行だけのメッセージだった。

「おつかれー 今日は眠くてさ、もう寝るね」

美咲は、目を細めた。

健が疲れているのは分かってる。
仕事が忙しいのも知ってる。
無理して長く付き合わせたくない。

頭では理解しているのに、
胸の奥では別の感情が大きく息をしていた。

(どうしてこんなに苦しいの?)
(たった一言なのに、なんで涙が出そうになるの…?)

健の一言は優しさだ。
だからこそ余計に、寂しさが際立った。

(“会いたいな”とか、“声聞きたい”とか…
そんな言葉、最近なくなったよね)

ぽたり、と涙が頬を伝った。

泣きたいわけじゃない。
でも、心が勝手にこぼれてしまう。

こんなに彼を想っているのに、
こんなに不安になる恋の仕方なんて、いつから覚えてしまったんだろう。

美咲はスマホを胸に抱えて、ソファにゆっくり背を当てた。
天井を見つめながら、静かに息を吐く。

(このままずっと、距離が開いていくのかな…)
(私だけが焦って、私だけが不安になって…
そうやって勝手に壊してしまいそうで怖い)

自分の気持ちがコントロールできない。
その事実が何より苦しかった。

しばらくして、涙がようやく止まったころ、
美咲はひとつの思いに辿り着く。

(誰かに…話を聞いてほしい)

友達に話しても「それぐらい普通だよ」と流される気がした。
同僚に言うほど深刻でもないように見えるかもしれない。
でも今、美咲は“普通”とか“深刻”とか、そんな枠に当てはめたくなかった。

ただ、自分の心が分からない。
その“わからない”がつらい。

(誰かに…
私の気持ちの整理を手伝ってほしい)

胸の奥で、そう静かに願っていた。


翌朝。
カーテンの隙間から射し込む白い光が、部屋の空気を静かに照らしていた。
いつもと変わらない朝のはずなのに、美咲は起き上がるのに少し時間がかかった。

(昨日…泣いちゃったんだよね)

枕元に置いていたスマホを手に取る。
健からのメッセージは、もちろん増えていない。
「おはよう」も「昨日ごめんね」も、特別な言葉は何もない。

ただ、それが余計に苦しく感じた。

(昨日の私、どうしてあんなに不安になったんだろう…
健は悪くないのに、私は勝手に落ち込んで、勝手に泣いて…)

冷静になったつもりでも、胸の奥の違和感は消えていない。

朝ごはんを食べようと思ってキッチンに立ってみても、
牛乳をグラスに注ぐ手が、かすかに震えていた。

(このままじゃ、だめだ)

ふと、昨日の夜中につぶやいた言葉が頭の中に浮かぶ。

「誰かに…話を聞いてほしい」

その願いは寝ても消えていなかった。
むしろ一晩経って、もっとくっきりと心の中央に居座っていた。

===

通勤の電車に揺られながら、美咲は考え続けた。
友達に話すか?
でも、あの子たちには「普通の悩み」と笑われそうで嫌だ。

(普通とか、重いとか…そういう尺度じゃないんだよね。
私は、ちゃんと自分の気持ちを知りたいだけなんだ)

スクロールする指が止まり、ふとした瞬間に“占い”という文字が目に入った。

恋愛相談の書き込み。
鑑定を受けて気持ちが整理できたという投稿。
「占いだから当たるとかじゃなくて、話したらスッキリした」というレビュー。

(占い…)

一度、消えかけた選択肢だった。
でも今は、それがひどく優しく感じた。

相談というより、
ただ“感情の整理”を誰かに手伝ってもらえる場。

そんなイメージが浮かんで、
美咲は仕事の休憩中に、そっと予約ページを開いた。

カレンダーには、空いている時間帯がいくつか残っていた。
指が震える。
でも心は決まっていた。

(行ってみよう。
わからない気持ちのまま、健と向き合うのは…もう苦しいから)

深いため息のあと、画面をじっと見つめて、
美咲は静かに予約ボタンを押した。

カチッ。

ただそれだけの音なのに、
胸の奥にほんの少し、温かい灯りが灯るのを感じた。

(やっと…
前に進む一歩が、踏み出せた気がする)

その小さな灯りを胸に抱きながら、
美咲はゆっくりとスマホを閉じた。


鑑定当日の夕方。
仕事を早めに切り上げた美咲は、駅前のビルの前で足を止めた。

ビルの4階。
案内板には小さく「恋愛相談・スピリチュアル鑑定」の文字。
軽く緊張が走る。

(大げさなのかな…)
(でも、もう一人で抱え込むのはしんどいし…)

ドアの前に立って深呼吸をしてから、そっとノックをした。

中から聞こえる落ち着いた声。

どうぞ、お入りください

美咲は静かに扉を開けた。

部屋は温かみのある照明で、
カウンター越しに座る占い師は柔らかい雰囲気をまとっていた。
派手さはなく、聞く姿勢そのものが洗練されているような人だった。

今日は来てくださってありがとうございます

こちらこそ…よろしくお願いします

椅子に座ると、胸の鼓動が大きくなる。

では…今日はどんなお話を聞かせていただけますか?

その言葉に、美咲の緊張の糸がふっと緩んだ。

(ああ…聞いてくれるんだ)

そう思えただけで涙が出そうになる。

ゆっくり、言葉を探しながら話し始めた。

最近、彼との会話が減ってきて…
連絡も短くて…なんか距離を感じるんです

嫌われたわけじゃないとは思うんです。
優しさも変わらないし…でも、前みたいに笑い合えなくて

話しながら、自分でも気づいていなかった言葉がこぼれていく。

私、すごく…不安で…
このまま離れていくのが怖くて…

気づいたら目元がにじんでいた。

占い師は言葉を挟まず、美咲の方をまっすぐ見つめてくれる。
否定でも、慰めでもなく、ただ“受け止める”視線。

その静かな空気の中で、占い師が口を開いた。

恋の炎が静かになるとき、
それは“終わり”ではなく“安定”のサインです。

美咲の呼吸が止まる。

愛の形が変わるタイミングを、
怖がらずに見つめてください。

美咲は、思わず唇を震わせながら問い返した。

……終わりじゃ、ないんですか?

占い師は静かに微笑む。

終わりではありません。
ただ、恋が“ときめきのステージ”から
“信頼のステージ”に移ろうとしているだけです。

言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていった。

不安の根っこを見てくれる人がいる。
その感覚が、どこかで固まっていた心を溶かしていく。

美咲の目から、涙がひとすじこぼれた。

(終わりじゃない…?
“変わってきた”って、悪いことじゃないの…?)

ずっと自分を責めていたことが、静かにほどけていく感覚だった。

占い師は続ける。

まず、自分の気持ちを確認してみましょう。
“最近変わったこと”をいくつか書き出して、
その横に“どう感じたか”を正直に書いてみてください。

変わったこと…どう感じたか…

はい。感情には、必ず“本当の願い”が隠れています。
今のあなたの不安の奥にも、きっと何かがあります。

美咲は、小さく息を飲んだ。

(私は…ただ、大切にされたいって…思ってたのかな)

涙の後に、ようやく少しだけ胸が軽くなる。

初めて、
“誰かに話してよかった”
と思える時間だった。


鑑定が終わり、外に出ると、夕暮れが街をやわらかく染め始めていた。
風は少し冷たかったが、心の中だけはじんわりとあたたかかった。

(終わりじゃないって…
愛が“形を変えているだけ”だなんて、考えたこともなかった)

駅までの帰り道、美咲は何度も占い師の言葉を思い返した。
それはじっとり胸に残る涙とは違って、
そっと背中を支えてくれるような静かな余韻だった。

===

家に着くと、美咲はバッグを置いてすぐにテーブルへ向かった。
鑑定の最後に言われたことが、どうしても気になったからだ。

最近変わったことを3つ書いて、
その横に“どう感じたか”もメモしてみてください。

ノートを開く手が少し震えた。
書いたら、何かが変わってしまう気がして。

でも同時に、
書かなければ、ずっと自分の気持ちが宙ぶらりんのままな気もした。

ゆっくりペンを取り、ページの中央に小さく書く。

最近、変わったこと。

会話が減った

彼が疲れているように見える

自分も仕事で余裕がなくなっていた

そこに並んだ言葉は、事実だけで、それ以上でも以下でもなかった。

(…私は、ずっと“減ったこと”ばかりに目を向けてたんだ)

横に線を引き、
その右側に、感じていたことを書き始める。

・会話が減った
 → 悲しい、寂しい。嫌われた気がした。

・彼が疲れている
 → 無理させたくないのに、距離を置かれたみたいで怖かった。

・自分が忙しい
 → 私ばっかり焦ってるようで、情けなくなった。

書いていくうちに、美咲の表情が少しずつほどけていった。

(あぁ…これだ。
私、ただ“置いていかれた”って思ってたんだ。)

本当は、健のことを責めたいわけじゃない。
むしろ、優しい彼の負担になりたくなかった。

でも心はいつの間にか、
「私は大切にされていないのかも」
という形のない不安を膨らませていた。

ノートの端に、思わず書き足す。

本当は、“大切にされたい”って思ってた。
ちゃんと向き合いたかった。
愛がなくなったわけじゃないのに、失うのが怖かった。

書きながら、胸が少し痛くなって、
同時に涙がまた滲んだ。

(そっか。
私…こう思ってたんだ。)

鑑定中には言えなかった“本当の本音”が、
ノートの上でようやく形になった。

不安の正体が見えた瞬間、
心がすっと軽くなるのを感じた。

まるで、
今まで自分の中でずっと迷子になっていた気持ちが、
やっと帰る場所を見つけたようだった。

美咲は深く息を吸って、ページをそっと閉じた。

(大丈夫。
まだ終わってなんかいない。
私たち、ちゃんと繋がってる。)

その夜、美咲は久しぶりに、
胸の重さが少しだけ軽くなった状態で眠りについた。


翌朝、美咲は少し早く目が覚めた。
昨日の夜に書いたノートがテーブルの上で静かに開かれている。
ページの文字をそっと指でなぞりながら、美咲は小さく息を吸った。

(終わりじゃない。
ただ、形が変わろうとしているだけ…)

そう思うだけで、胸の奥に小さな灯りが灯る。
不安が全部消えたわけではない。
けれど、“本当の気持ち”を言葉にして知れたことで、
世界の輪郭が少しやわらかく見えた。

===

その日の夕方。
仕事終わりに健と待ち合わせて、駅近くのカフェに入った。

テーブルに向かい合って座ると、
美咲は少し緊張した。
いつもどおりにただ過ごせばいいのに、
心のどこかで“変化”を探してしまっている自分がいた。

注文を終えると、二人の間に静かな空気が流れた。
以前なら、その沈黙が耐えられなかった。
“つまらない?” “飽きられた?”
頭の中が勝手に騒ぎ出していた。

でも今日は、不思議と落ち着いていられた。

(私ばっかり焦ってたんだよね…
健くん、ただ疲れてただけかもしれないのに)

そう思ったときだった。

「今日は寒いね。手、大丈夫?」

健がカップを両手で包みながら、美咲に視線を向けた。

「えっ?」

思わず間の抜けた返事をしてしまう。

「ほら、最近冷えてきたし…カイロ、持ってきたんだ」

健はジャケットのポケットから、未開封のカイロを差し出した。

普段と変わらない、
ただそれだけの気遣い。

でも美咲の胸には、
その“さりげなさ”が、
いつも以上にやさしく響いた。

(あ…健くん、
何も変わってなかったんだ)

本当は、ずっと優しかった。
ただ、受け取りきれなくなっていたのは美咲の方だった。

カイロを受け取った瞬間、
胸がふわっとあたたかくなった。

「ありがとう。…嬉しい」

美咲がそう言うと、健も照れたように微笑んだ。

「美咲、最近冷え性ひどいって言ってたからさ。
ちゃんとあったまってほしいんだよ」

その言葉はどこまでも自然で、
どこまでも健らしい。

(あぁ…本当に、変わってなかったんだ)

美咲はゆっくり息を吐いた。
昨日までの不安が、少しだけ遠くへ流れていく感覚。

会話はまだ以前のような軽快さではない。
沈黙が多い時間もある。

でも、今日はそれでも良かった。

沈黙の中に、
ふたりが確かに“繋がっている気配”がある。

カフェを出るころには、
美咲の表情は自然とやわらかくなっていた。

ただ帰る道すがら、
ふと胸の奥に別の疑問が生まれた。

(健くんは…どう思ってるんだろう)
(私みたいに、不安になることあるのかな…?)

先ほど感じた温かさとは別に、
新しい“知りたい気持ち”が生まれていた。


カフェを出て、駅へ向かう道を並んで歩く。
夜風は少し冷たかったが、手の中のカイロがじんわりとあたたかい。

健は特別多く話すわけでもない。
歩調を合わせてくれるわけでもなく、
ただ隣を歩いているだけ。

それなのに、美咲は今日、
彼との距離がほんの少し近いように感じていた。

(…こんなに、優しかったんだよね。ずっと。)

気づかなかっただけだ。
不安に支配されて、
“減ったもの”ばかり数えて、
“変わらないもの”に気づけていなかった。

そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

駅に着くと、人の流れが二人のあいだを通り過ぎる。
そのざわめきの中で、美咲はふと横目で健を見つめた。

彼は変わらない表情で、
電光掲示板をぼんやり眺めている。

(ねぇ、健くん。
あなたは最近、どう思ってたの?)

喉の奥まで出かかっているのに、
どうしても口にできない。

聞いて傷つくのが怖い。
でも、知らないまま過ごすのもつらい。

その“あいだ”で揺れ続ける感情が、
美咲の胸に小さく波紋を作った。

電車が到着するアナウンスが流れる。
健が振り返って、美咲に言った。

「今日はありがとうな。気をつけて帰れよ」

その声はいつもどおり優しいのに、
美咲はどういうわけか、その言葉の“奥”を知りたくなった。

(この優しさの奥にある気持ちを…
私はちゃんと知りたい)

電車の扉が開き、人々が乗り込んでいく。
美咲は歩きながら、自分の胸に静かに問いかけた。

(健くんは、“今の私たち”をどう感じてるんだろう?)

その問いは、恐れではなく、
“向き合うための質問”へと変わりつつあった。

ノートを書いたことで心が整理されたように、
今度は“相手の心”を知りたい。

それは、自分を追い詰めるためじゃない。
二人で前に進むために、必要な一歩だと美咲は感じていた。

電車に乗り込み、ドアが閉まる。
動き出した車内で窓に映る自分の顔は、
昨日よりも少しだけ凛として見えた。

次は…ちゃんと向き合おう。

健くんの気持ちを、
私は知りたい。


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