

日曜の朝。
駅前のカフェの窓際、同じ席に並んで座る。
二人でここに来るのは、もう何度目だろう。
蓮がメニューをめくりながら、笑った。
「いつも同じケーキ頼むよね。」
「え、だって季節限定だよ?」
軽口を交わすその空気が、昔よりずっとやわらかい。
言葉を選ばなくても、ちゃんと通じる。
それが少し不思議で、少し心地よかった。
ノートを開く。
“今できる100のこと”リスト。
ページの端に並ぶ数字は、すでに「97」まで埋まっている。
残りはあと3つ。
「100まで、もうすぐだね。」
蓮の言葉に、彩花はうなずいた。
「うん。ここまで来るの、早かったね。」
カフェの窓越しに冬の陽が差し込む。
光がノートの紙を透かして、
手書きの文字がやさしく浮かび上がった。
──“焦らず、ひとつずつ。”
最初に書いたその言葉が、
100のリストの上で静かに光っているように見えた。
「終わったら、どうする?」
蓮の何気ない一言に、少しだけ心が揺れた。
「うーん、どうしようかな。
終わったら…なんだろう、ちょっと怖いかも。」
「怖い?」
「うん。これがなくなったら、
私、何を頑張ればいいか分からなくなりそうで。」
蓮は少し考えてから、やわらかく笑った。
「じゃあ、終わらせなきゃいいじゃん。」
「え?」
「“100”って数字、ゴールじゃないでしょ。
次の“1”を見つけたら、それが続きなんじゃない?」
その言葉を聞いて、彩花はふっと笑った。
「確かに。らしいね、それ。」
けれど──。
帰り道、駅へ向かう途中の街並みを見ながら、
胸の奥で別の感情が静かに顔を出した。
“終わらせなきゃいい、か。
でも、終わらないものって、ちゃんと意味があるのかな。”
通りを行き交う人々。
同じ街、同じ時間。
なのに、景色がどこか遠く感じた。
夜、部屋に戻ってカーテンを閉めた。
リビングのテーブルの上には、さっきまでカフェに持っていたノートが開きっぱなしになっている。
数字の並びが「97」で止まっていた。
“あと3つ”。
それだけのことなのに、
今日は不思議と、ペンを持つ気になれなかった。
ソファに沈み込みながら、スマホを手に取る。
メッセージの通知欄に、蓮の名前。
“今日はありがとう。また来週も行こう。”
やさしい言葉なのに、胸の奥が少しだけざわつく。
“ありがとう”のあとに絵文字がない。
そんな些細なことを気にしないようになったはずなのに。
“気にしないようになった私”を、少し誇らしく思っていたはずなのに。
心のどこかが、また静かに波立っていた。
「私、変われたんじゃなかったっけ。」
ぽつりと呟いて、天井を見上げる。
時計の針の音が、やけにゆっくり響いた。
机の上のノートをもう一度開く。
1ページ目に戻ると、かすかにインクが薄れた文字が目に入った。
「焦らず、ひとつずつ。」
あのときの私は、きっとこの言葉を信じていた。
けれど今は、焦っていないのに、何かが足りない気がする。
ページをめくる。
「料理を覚える」
「貯金をする」
「資格を取る」
初めのほうの項目は、努力と義務の言葉が並んでいた。
そのあとに続く、
「お気に入りの入浴剤を見つける」
「朝に深呼吸をする」
「一日を笑顔で締めくくる」
──あの頃、少しずつ自分を取り戻していった証のような言葉たち。
ペン先で数字をなぞりながら、彩花は静かに目を閉じた。
“どうして、今はこんなに苦しいんだろう。”
頭の中で、あの日々が流れ始める。
音信不通だった夜。
既読がつかないスマホを見つめて泣いた夜。
勇気を出して気持ちを伝えた日。
そして、彼と一緒にリストを開いたあの朝。
“ちゃんと、乗り越えてきたはずなのに。”
ノートの端に、ペンでそっと書き加えた。
「97個まで来た。
だけど、何を目指していたのか、分からなくなってる。」
少し滲んだその文字を見つめながら、
“100の数字よりも、自分の心の方が遠く感じる”
そんな不思議な感覚が広がっていった。
夜更け。
机の上のノートを閉じても、胸の中のざわめきは止まらなかった。
「97個」
──その数字が、静かに圧をかけてくる。
“あと3つ”書くだけなのに、ペンが動かない。
何を足せば、私は“満たされる”のだろう。
ふと、スマホの画面を開く。
通知欄に並ぶアプリのアイコンの中で、
ひとつだけ、やさしい光を放つものがあった。
あの占いアプリ。
“もう相談することなんてないはずなのに。”
そう思いながらも、指が自然に動いた。
──通話がつながる。

こんばんは、彩花さん。
あの声。
何度も救われた声。
聞いただけで、涙腺が少し緩む。
こんばんは。
覚えてくださってるんですね。



もちろん。
“今できる100のこと”を頑張っている方を忘れるわけがありません。
少し笑いながら、彩花は息を吐いた。
97まで書けたんです。でも……なんか、空っぽなんです。



空っぽ、ですか?
うまく言えないけど、
書いても書いても、もう何かを“埋めるため”に書いてる気がして。
最初の頃みたいに、心が動かないんです。
一瞬の沈黙。
そのあと、占い師の声がやさしく響いた。



それは、“リストが完成に近づいている”証拠ですよ。
え?



彩花さん、これまでは“行動を変えるため”に書いてきた。
でもね、今は“意識を変えた自分”を確かめようとしている。
だから、心が静かになるのは自然なことなんです。
言葉の意味をゆっくり飲み込むように、彩花は目を閉じた。
でも、これで終わりなんですよね?



いいえ。“100”は区切りであって、終わりではありません。
行動が変わったあなたは、これから“景色の意味”を変えていくんです。
“景色の意味”。
その言葉が、心に深く沈んでいく。



行動で世界を変える人は多いです。
でも、世界の“見え方”を変える人は少ない。
あなたは、後者になろうとしている。
彩花は黙って聞いていた。
喉の奥が熱くなり、気づけば小さく息を震わせていた。



意識を変えると、行動が変わります。
行動が変わると、景色が変わります。
その変化を、自分の手で感じ取れる人になったんです。
……私、行動ばかり見てました。
“やらなきゃ”って、ずっと焦ってて。



それでいいんですよ。
“やる”ことで、“在り方”が見えてくるんです。
彩花は笑った。
涙がひと粒、ノートの表紙に落ちた。
やっと、わかりました。
私、リストを“埋める”ことばかり考えてたけど、
本当は“満ちる”ことを求めてたんですね。



その気づきがあれば、もう十分です。
電話の向こうで、静かに時計の音が鳴っていた。
まるで、誰かが“次のページをめくる音”のように。
朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
いつもと同じ部屋、同じ時間、同じ朝。
けれど──
なぜだろう。
その光が、今日は少しだけやさしく見えた。
机の上には、昨夜まで書いていたノート。
表紙をなでると、紙の手触りが少し柔らかく感じる。
静かにページを開くと、
“97”まで並んだ数字が目に入った。
その下の余白に、
ペンをゆっくり滑らせる。
「98. 今日の空を見上げる」
「99. 誰かの言葉をまっすぐ受け取る」
「100. 自分に“ありがとう”と言う」
最後の文字を書き終えた瞬間、
心の中に、ひとつの音が静かに広がった。
“終わった”という音じゃない。
“始まった”という音だった。
外から聞こえる小鳥の声。
通勤途中の人の足音。
いつもの景色が、
まるで新しい世界のように見えた。
──“景色って、変わるんだ。”
昨日までは、
“行動を変えなきゃ”と焦っていた。
けれど今は、
“感じ方を変えるだけで、世界は変わる”と分かる。
「意識を変えると行動が変わる。
行動が変わると景色が変わる。」
占い師の言葉が胸の奥で響く。
でも今はもう、“誰かの言葉”ではなく、
“自分の言葉”として受け止められる気がした。
彩花はノートを閉じ、
カーテンを少しだけ大きく開けた。
朝の光が部屋いっぱいに広がる。
週末の午後。
蓮と待ち合わせたカフェのテラス席は、
やわらかな陽射しに包まれていた。
テーブルの上にノートを広げると、
彼が少し笑いながら覗き込む。
「もう100個、書けたんだね。」
「うん。最後の3つは、ちょっと悩んだけど。」
彩花はページをめくりながら、
最後の項目を指でなぞった。
「98. 今日の空を見上げる」
「99. 誰かの言葉をまっすぐ受け取る」
「100. 自分に“ありがとう”と言う」
蓮はしばらくその文字を見つめていた。
「なんかさ、最初の頃より、字が優しくなったね。」
「え?」
「最初に見せてもらったときは、
“頑張るぞ”って感じの筆圧だった。
今は、“もう大丈夫”って感じがする。」
彩花は思わず笑った。
「確かに、そうかも。」
風が吹いて、ノートのページが一枚めくれた。
空白のページが現れる。
「じゃあ、ここからどうする?」
蓮の問いに、彩花は少し考えてから答えた。
「101個目を見つけたら書き足していく。」
「へえ、いいね。」
蓮はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
その表情を見ながら、彩花は思った。
“私が変わったから、彼の優しさにも気づけるようになったんだ。”
以前は不安で、
彼の一言ひとことを試すように受け止めていた。
でも今は、
その言葉の奥にある“思いやり”を、
ちゃんと感じられるようになった。
ノートの1ページ目をもう一度開く。
「焦らず、ひとつずつ。」
──あの日の自分が残した文字。
あれは“頑張るための言葉”じゃなかった。
“生き方のリズムを思い出すための言葉”だったのかもしれない。
「蓮、ねえ。」
「ん?」
「このリスト、埋めたから終わりじゃなくて、
これから“動かす”ものにしたいんだ。」
「動かす?」
「うん。
書くことも大事だけど、
そのときどきで“感じること”を
書き足していくのもいいなって思って。」
「なるほど。じゃあ、100個じゃ終わらないね。」
「そう。これからがスタート。」
ふたりの笑い声が、春の風に溶けていく。
ノートの端に、彩花は静かにペンを走らせた。
「101. 今日を大切に生きる。」
その文字が乾くころ、
彼と目が合った。
その瞬間、言葉はいらなかった。
“意識を変えると行動が変わる。
行動が変わると景色が変わる。”
リストはもう、紙の上だけのものじゃない。
彩花の毎日の中で、
静かに、確かに動き始めていた。
「このノート、もう全部書き終えたの?」
蓮がカップを手に取りながら、何気なく尋ねた。
「うん。でも、終わったというより……始まった気がする。」
彩花は笑いながら答える。
ページの最後に書いた一行──
“私を大切にできることが、いちばんの“今できること”。
その言葉が、どこか新しい扉を開けたように思えた。
蓮はページをめくりながら、小さく頷く。
「なんか、俺もこのリストの一部にいた気がする。」
「うん、そうかも。」
彩花は微笑んでから、少し考えるように視線を落とした。
「ねえ、今度は“私たちのリスト”を作ってみない?」
蓮が少し驚いたように顔を上げる。
「“私たちの”?」
「うん。“今、私たちができる100のこと”。」
言葉にしてみると、胸の奥が少し熱くなった。
「今までのは、自分を立て直すためのリストだったけど、
次は、二人で前を向くためのリストにしたいの。」
蓮は少し照れたように笑った。
「いいね、それ。俺たちの未来を、ページで育てる感じだ。」
彩花も笑った。
「たぶん、最初の一行はもう決まってる。」
「どんな言葉?」
「“本音で向き合う”。」
その言葉を口にした瞬間、
カップの縁を打つスプーンの音が静かに響いた。
二人の間に流れる空気が、やさしく変わっていくのを感じた。









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