

旅から戻った日の夜、部屋の空気が少し違って感じられた。
家具の配置も照明の明るさも何ひとつ変わっていないのに、
世界の輪郭だけが、少しだけ柔らかくなっていた。
キャリーケースを玄関に置き、ゆっくりと靴を脱ぐ。
長い帰路で感じた静けさが、まだ体の中に残っている。
《澄の途》の瓶を手に取り、手首に一滴だけ落とした。
香りが広がる。
ラベンダーとベルガモットの間に、微かにウッドが混ざる。
あの海沿いの町の風を、思い出させる香りだった。
手首を鼻に近づけて、ゆっくりと目を閉じる。
「ただいま」
小さくつぶやいた声が、部屋の中で静かに溶けた。
鏡の前に立つと、旅に出る前よりも表情が穏やかに見えた。
少し焼けた肌、髪に残る潮風の香り。
心の奥にはまだ、寂しさの名残がある。
けれどそれは、もう痛みではなく“空白のやさしさ”のように思えた。
冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出す。
何も加えずに飲む冷たい水が、身体に沁みていく。
窓を開けると、秋の夜風がカーテンをゆらした。
ベランダのハーブが少し成長している。
旅行前より葉の色が濃くなっていて、生命の呼吸を感じる。
「留守番ありがとう」と心の中で呟く。
テーブルの上に置いたノートを開いた。
最後のページには《今日は何もしなかった。でも、生きていた。》の文字。
その下に、新しく書き加える。
──“今日、ちゃんと帰ってきた。心も一緒に。”
ペン先が紙を滑る感覚が心地よかった。
ページを閉じて、深く息を吸う。
《澄の途》の香りがふわりと漂い、
旅で見た青い海と白い雲が、ゆっくりと心の中に浮かんだ。
胸の奥で、静かな波が寄せては返す。
もう、彼のことを思い出しても、世界が揺れることはない。
恋は終わった。けれど、人生は続いていく。
その事実を、ようやく受け入れられた気がした。
カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。
窓辺に置いた香水の瓶が、小さくきらめいた。
真奈はその光を見つめながら、静かに微笑んだ。
──“明日は、少し外に出てみよう。”
その言葉が、部屋の空気をやさしく震わせた。
週の半ば、昼休みに彩香が声をかけてきた。
「ねえ真奈、今度の休日、アフタヌーンティー行かない?
ずっと行ってみたかったホテルがあってね。」
休日に職場の同僚と会うのは珍しい。
けれど、その提案がなぜか心地よく響いた。
少し迷ったあとで「いいね」と返す。
その日曜、待ち合わせたのは都心のホテルのラウンジだった。
高い天井から光が落ち、ガラスの器に反射してきらきらと揺れる。
テーブルの上には、三段のティースタンド。
小さなスコーンやサンドイッチ、ベリーのタルトが並んでいた。
「こういうの、久しぶりだね」
彩香が紅茶を注ぎながら笑う。
「うん。なんか、学生のころみたい。」
真奈はカップを手に取り、ほのかなアールグレイの香りを吸い込んだ。
職場の昼休みとは違う、ゆるやかな時間。
周囲のざわめきが遠くに感じられ、
自分の輪郭が少しずつ戻ってくるような気がした。
「最近、顔つきが変わったね」
彩香がケーキをフォークで切りながら言う。
「え?」
「なんていうか、落ち着いたっていうのかな。
前よりも、柔らかい顔になった気がする。」
真奈は少し照れたように笑った。
「旅に行ったからかも。海の近くの町で、
香水を作ったんだ。自分の香りを。」
「香水? 素敵じゃない。どんな香り?」
「ラベンダーとウッド。名前は《澄の途》。
自分の気持ちを整理して、前に進もうと思って。」
その名を聞いた彩香は、しばらく黙って微笑んだ。
「……なんか、真奈らしいね。」
カップの中で光が揺れた。
真奈はその静かな輝きを見つめながら、
“誰かに自分の話をする”という行為のあたたかさを思い出していた。
「そういえばさ、うちの学生時代の友人がね、
一人旅が好きで、最近も海辺の町を巡ってたんだって。
話が合うと思うなぁ。今度会ってみない?」
「えっ、紹介ってこと?」
「ううん、そういうのじゃなくて。
恋愛とか抜きで、普通に“人として話してみてほしい”って感じ。」
真奈はカップを見つめたまま少し考えた。
以前ならすぐに断っていたかもしれない。
でも今は、“人と関わること”を怖がらなくなりたいと思っていた。
「……うん、会ってみたいかも。」
「よかった。きっと気が合うと思うよ。」
彩香が笑顔でそう言う。
その笑顔が、午後の日差しに溶けてやさしく滲んだ。
窓の外では街路樹の葉がゆっくり揺れていた。
光がテーブルの上を滑り、
《澄の途》の香りが真奈の手首からふわりと立ちのぼる。
──誰かと話すことで、少しずつ世界が戻ってくる。
その感覚を、真奈は久しぶりに味わっていた。
週末、彩香に誘われてカフェに向かった。
「友だちの悠人、たまたま今こっちに来てるの。気楽に話そう」
そう言われていたけれど、駅へ向かう道の途中、
真奈の心にはほんの少しの緊張があった。
待ち合わせの店は、路地裏の静かなカフェだった。
ドアを開けると、木の香りと焙煎豆の匂いが混じり合う。
窓際の席で、彩香とひとりの男性が座っていた。
黒縁のメガネをかけ、落ち着いた雰囲気の人。
「真奈、こっち」
彩香が手を振る。
「初めまして、悠人です」
その声は低く、柔らかかった。
軽く頭を下げて席に着く。
テーブルにはもうコーヒーが運ばれていて、
湯気の向こうで悠人の笑顔が少しぼやけて見えた。
「彩香から聞きました。旅が好きなんですね」
「そうですね……最近、一人で海のほうへ行ってきました」
「いいですね。僕も一人旅ばっかりしてます。
誰にも気をつかわない時間、あれって贅沢ですよね。」
“誰にも気をつかわない時間”
──その言葉が心に響いた。
真奈は微笑んで頷いた。
「ほんとに。あの静けさって、なんか自分の音が聞こえる気がします。」
彩香がうれしそうに二人を眺めていた。
「でしょ? 二人、絶対気が合うと思ったの。」
そのあと、旅先の話や好きな音楽の話に自然と花が咲いた。
悠人はどんな話題にも穏やかに耳を傾け、
会話の間に無理な沈黙が生まれなかった。
ふと、彼が言った。
「……いい香りですね。」
一瞬、真奈は驚いた。
「え?」
「さっきから、すごく落ち着く香りがして。」
手首に纏った《澄の途》の香りが、
ふと空気に溶けた瞬間だった。
「旅先で作った香水なんです。自分の香りを。」
「へえ、すごい。名前はあるんですか?」
「《澄の途》っていいます。」
「澄の途……いい名前ですね。」
悠人はその言葉をゆっくりと口にし、
少しだけ遠くを見るように微笑んだ。
「道は続いてる、って感じがしますね。」
真奈はその言葉に胸の奥が温かくなった。
香水を作ったときの、自分の静かな覚悟が蘇る。
“この香りを使い切ったら、また新しい香りを作ろう。”
──道は続いている。
その一文が、心のノートに書き込まれるようだった。
窓の外では午後の日差しが傾き始め、
ガラスの向こうで木漏れ日がゆらいでいる。
彩香が「次はみんなでどこか行きたいね」と言った。
真奈は自然に笑えた。
「うん、いいかも。」
久しぶりに、自分の声が“明るい音”を持っていた。
カフェを出ると、夕方の風が頬をなでた。
《澄の途》の香りが、やさしくその背中を押した。
帰り道、街の灯りが雨上がりの路面に反射していた。
アスファルトが淡く光を返し、人の足音が遠くに響く。
真奈はバッグの中の小瓶を指先でなぞった。
《澄の途》。
その名を思い出すたび、胸の奥に小さな熱が宿る。
今日の会話をひとつひとつ思い返す。
彩香の笑い声。
悠人の穏やかなまなざし。
そして──“道は続いてる、って感じがしますね”という言葉。
信頼も恋も、ひとつの形ではない。
それでも、もう一度“誰かと話したい”と思えたことが、
なによりの回復だと思えた。
交差点の信号が青に変わる。
人々が足早に渡っていく中、真奈は立ち止まった。
少しだけ顔を上げて、空を見た。
雲の切れ間に星がひとつ、かすかに瞬いている。
「また、誰かと笑ってもいいのかもしれない」
声に出すと、風が頬を撫でた。
それは、旅先で感じた潮風とよく似ていた。
ポケットの中のハンカチから、《澄の途》の香りがほのかに立ちのぼる。
その香りを吸い込みながら、真奈はゆっくり歩き出した。
通りの角に、小さな花屋があった。
ショーウィンドウの中で、白い花が淡い光に包まれている。
札には「花言葉:新しいはじまり」と書かれていた。
真奈は足を止め、店の扉を開けた。
カラン、と鈴の音が鳴る。
店内は花の匂いで満ちていて、
思わず深呼吸をした。
「この白い花、ひとつください。」
店員が包み紙に花を乗せる。
「ガーベラです。希望や前向きさの象徴なんですよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに波打った。
香りと花と、ほんの少しの言葉。
それだけで、未来がまた少し近づいた気がした。
受け取った小さな花束を抱えて外に出る。
夜風が、花弁をやさしく揺らした。
ビルの隙間から流れる風が髪を撫で、
頬に触れる空気の冷たさが、どこか心地よい。
歩きながら、真奈は思った。
“怖くてもいい。怖さを感じるってことは、もう一度信じたいってこと。”
その気づきが、心の奥に灯をともした。
信号が赤に変わる。
立ち止まって、花を見つめる。
白い花びらが、街の光を受けてやさしく透けていた。
──この小さな光が、また新しい道を照らしてくれる。
信号が青に変わり、人々が歩き出す。
真奈も一歩、前へ出た。
夜風が背中を押した。
《澄の途》の香りが、ふわりと広がった。
帰宅して、玄関の灯りをつけた。
部屋の空気が、ほんのりとあたたかい。
外から持ち帰った白いガーベラが、
まだ薄明るい光の中で静かに揺れていた。
コートを脱ぎながら、鏡の前に立つ。
頬には夜風の冷たさが残り、
心の奥には“今日の余韻”が穏やかに漂っていた。
「……おかえり」
自分に向かってそうつぶやく。
その声が、前より少しだけやさしく響いた。
テーブルの上に《澄の途》を置く。
瓶のガラスが、部屋の灯りを反射してかすかに光る。
その隣に、白い花をそっと飾った。
花と香りが並ぶと、部屋の空気が少し変わる。
まるで、旅で拾ってきた光をもう一度灯したみたいだった。
椅子に腰を下ろし、ノートを開く。
前のページには、旅の帰りに書いた言葉があった。
《今日、ちゃんと帰ってきた。心も一緒に。》
その下に、新しいページをめくり、ペンを取る。
──“出会いを恐れない。それも私の回復の一部。”
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが静かに溶けた。
言葉が自分の中に沈んでいく感覚。
強がりでも、前向きでもない。
ただ、等身大の“今”を記しただけの一文。
ノートを閉じると、カーテンの隙間から夜風が流れ込んだ。
花がわずかに揺れ、《澄の途》の香りがふわりと漂う。
窓の外では、遠くのビルの明かりが瞬いていた。
誰かが笑い、誰かが泣き、
それでも世界は止まらない。
その中で、自分もまた“生きている”という実感があった。
真奈は深く息を吸い込み、目を閉じた。
心の中に浮かぶのは、旅先の青い海と、あの日の空。
そして、今日の帰り道で見た白い花。
──私の道は、まだ続いている。
その言葉が、静かに胸の奥に沈んでいった。
灯りを落とすと、部屋の中にやさしい闇が広がった。
花の隣で《澄の途》の瓶が小さく光を返す。
その淡い輝きの中で、真奈は小さく微笑んだ。
「おやすみ」
その言葉が、今日という一日をそっと閉じた。





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