凪の続き【#3】─嘘の中で見た現実─

凪の続き【#3】─嘘の中で見た現実─

週末の午後、少し早めに家を出た。
久しぶりに会う健司との約束。
待ち合わせ場所は、いつもの駅前のカフェ。
席に着く前から、心のどこかが少し重かった。

ドアを開けた瞬間、彼はすでに座っていた。
白いシャツに薄いグレーのジャケット。
どこか疲れたような顔をしていたが、
それでも笑顔を作って「久しぶり」と言った。

私は軽く会釈をして向かいに座る。
テーブルの上のカップは、半分ほど空いていた。

「忙しかったんだね」と言うと、
「うん、まあね。バタバタしてた」と、
曖昧な言葉が返ってきた。

その声の中に、わずかな焦りのようなものが混じっていた。

しばらく仕事の話や他愛もない話をした。
でも、会話の隙間に流れる沈黙が、以前よりも長い。
私はカップを持ち上げ、
白いカップの縁を指でなぞりながら言った。

「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」

彼は顔を上げた。
少しだけ目が泳いだ。

「……結婚、してる?」

沈黙。
店内の音楽がやけに遠くで流れている。
彼の目が一瞬、私から逸れた。
そして、深く息を吸い、静かに言った。

「……うん。」

その一言で、
時間が少しだけ止まった気がした。

驚きでも怒りでもなく、
ただ、何かが静かに崩れていく音だけが聞こえた。

私はゆっくりとカップを置いた。
手の中に残る温もりが、かえって現実味を帯びていた。

「そうなんだ。」
自分の声が、驚くほど落ち着いていた。

彼は何か言おうとした。
「最初は言えなかった」とか、「でも本気だった」とか。
けれど、言葉のどれもが届く前に、
私の中で何かが閉じていった。

「ありがとう。教えてくれて。」
それだけ言って、微笑んだ。
笑顔がうまく作れたのか、自分でも分からなかった。

店を出ると、冷たい風が吹いていた。
夕方の光がビルの窓に反射して、
街全体がどこか遠く見えた。

スマホが震えた。
彼からのメッセージ。

「ごめん。」

短いその一言を見つめているうちに、
胸の奥が静かに軋んだ。

“もっとこじれる前に知れてよかった”
──その言葉が、ふと頭の中に浮かんだ。

自分でも不思議だった。
涙が出ない代わりに、
呼吸が少しずつ浅くなっていった。


帰宅して玄関の灯りをつけた瞬間、
部屋の空気が少しよそよそしく感じた。

いつもと同じ間取り。
同じ家具。
それなのに、世界の輪郭がどこかぼやけて見える。

バッグをソファに置き、コートを脱ぐ。
無意識のうちにキッチンへ行き、
湯を沸かす準備をしていた。

「お茶を淹れよう」
口の中でそうつぶやくと、
まるで日常を取り戻せるような錯覚がした。

ケトルのスイッチを押す。
水がゆっくり温まり、やがて音を立てて沸騰する。
その小さな音が、
心の奥で張りつめた糸を少しずつ震わせていく。

マグカップを両手で包みながら、
リビングのソファに腰を下ろした。
テレビをつける気にはなれなかった。
窓の外では、街の明かりが滲んでいる。

「……既婚者か。」

声に出してみると、
現実の輪郭が少しだけはっきりした。
でも、胸の奥にはまだ温度がなかった。

彼の笑顔を思い出す。
休日に話していた他愛ない話、
駅のホームで見せた小さな仕草。
それらが一瞬で、別の意味を持っていく。

私はマグカップをテーブルに置き、
ゆっくり立ち上がった。
洗面所の鏡の前に立つ。

目の下に、うっすらと疲れがにじんでいた。
肌の色も少しくすんで見える。
それでも、泣いてはいなかった。

泣けないというより、
涙が出る場所が見つからない感覚だった。

「どうして、泣けないんだろう」
鏡に映る自分に問いかける。

心の中で何かが空回りしている。
悲しいのに、どこか冷静。
痛いのに、どこか静か。

鏡の向こうで、私が私を見ていた。
その視線の中に、わずかに怯えがあった。

「また、同じことを繰り返してる……」
口の中でそう呟いた瞬間、
胸の奥が小さくきしんだ。

以前も似たような終わり方をした恋があった。
その記憶が、今日の出来事に重なる。

自分を責めるつもりはなかった。
でも、“選んでしまう”という事実から、逃げられなかった。

湯気が少しずつ消えていくように、
心の中の何かがゆっくりと冷めていく。

部屋の明かりを落として、
ベッドの端に腰を下ろした。

シーツの感触が、指先にやけに現実的だった。
静まり返った部屋の中で、
自分の呼吸だけが聞こえる。

「大丈夫」
小さく呟く。
その声は、まるで他人を慰めるようだった。

胸の奥に残ったのは、
怒りでも涙でもなく、
ただ“自分への問い”だけだった。


翌日、午前中の光が薄く部屋に差し込んでいた。
カーテンを少し開けると、外の風が静かに流れ込む。
机の上には、昨夜飲みかけのマグカップがそのまま残っていた。

湯気のないカップを見つめながら、
“もう一度だけ話してみよう”と思った。
答えがほしいわけじゃない。
ただ、この静けさを誰かに分かってほしかった。

アプリを開くと、前回と同じ占い師のアイコンが目に入った。
指先が迷いなくその名前を押す。

呼び出し音のあと、柔らかな声が聞こえた。

こんにちは。お久しぶりですね

その声を聞いただけで、
胸の奥がじんわりと熱くなった。

……彼が、既婚者でした

短い沈黙。
占い師は、すぐに答えを返さなかった。
静かな呼吸だけが、受話器越しに伝わる。

やがて、穏やかな声が返ってきた。

それは……本当に辛かったですね。
でも、あなたがそれを自分の目で確かめたこと、
そして彼に直接聞けたこと、それはとても勇気のいることですよ。

その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かがほどけた。
“勇気”という言葉に、涙が静かに反応した。

私、変なんです。
悲しいのに、泣けなくて……
怒ることもできない。
ただ、心が静かで、怖いくらいに。

それは、心が現実を受け止めようとしているからです。
感情が追いつかないのは自然なこと。
今は無理せず、そのままでいいんですよ。

受話器の向こうの声が、
まるで毛布のように柔らかく包み込んでいく。

あなた自身の未来は、決して暗いものではありません。
ここを乗り越えた暁には、
きっと、あなたが“自分を大切にできる場所”が見つかります。

“自分を大切にできる場所”
その言葉が、心の奥に静かに落ちていった。

私は深く息を吸い込んだ。
それは、久しぶりに“生きている”と感じる呼吸だった。

……少し休もうと思います。
無理に前を向こうとせず、
ただ、静かに時間を過ごしてみたい。

ええ、それでいいと思います。
無理に動こうとしなくても、
心が整えば自然と歩き出せますから。

通話を終えると、部屋に光が差し込んでいた。
外の空気が少し暖かくなった気がした。

スマホをそっと伏せて、深呼吸をする。
静けさが、もう痛みではなく、
“安らぎ”に少しずつ変わり始めていた。


占いを終えた夜、真奈はリビングの灯りを落とした。
部屋の輪郭がゆっくりと闇に溶けていく。
ソファに座ったまま、目を閉じた。

何も考えない。
何も決めない。
ただ呼吸だけを感じる。

「1週間、何もしない」
そう決めたのは、占い師の言葉が心に残っていたからだ。

無理に動こうとしなくていい
──その一言が、
自分を許してくれたような気がした。

翌朝、目覚ましをかけずに起きた。
カーテンの隙間から淡い光が差し込み、
ベランダのハーブが小さく揺れている。

お湯を沸かして、好きな茶葉を選ぶ。
今日はカモミールにしよう。
カップから立ちのぼる湯気を見ていると、
昨日までのざらつきが、少しずつ遠のいていった。

スマホは机の上に伏せたまま。
連絡を待つことを、今日はしない。

昼、ベランダに出て風にあたる。
頬に触れる空気が少し冷たくて、
でも、心の中にはどこか透明な静けさがあった。

午後は本を開いたまま、ほとんど読まずに時間が過ぎた。
時計の針が進む音だけが、現実を教えてくれる。

夜、湯船にお湯を張る。
お湯に浸かると、
体の中の緊張が音もなくほどけていくのがわかった。

目を閉じると、
“いばらの道”という言葉がふと浮かんだ。
でも、もう恐怖の象徴ではなかった。
あの言葉の中には、
“それでも進める”という意味が隠れている気がした。

湯上がりに鏡を見る。
昨日までより、表情が少し柔らかく見えた。

「これでいい」
そう呟いた。
前に進むためではなく、
立ち止まる自分を否定しないための言葉だった。

布団に入る前、ノートを開いた。
新しいページに、今日の日付を書く。

──“今日は何もしなかった。でも、生きていた。”

その一文を書いて、ペンを置いた。
胸の奥で、
静かに何かが芽吹く音がした。


三連休の初日、真奈は小さなキャリーケースを引いて駅に向かった。
行き先は、以前から気になっていた海沿いの町。
電車に揺られていると、
窓の外の景色がゆっくりと冬の光に染まっていった。

イヤホンをつけずに、ただ風の音を聞いた。
誰の声もいらない時間。
その静けさが、思っていたよりも心地よかった。

宿に着くと、海の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
潮風に混じる少し甘い香り。
それだけで、旅に出てよかったと思えた。

夕食会場に入ると、隣の席に一人の老婆が座っていた。
銀色の髪を後ろで束ね、ワインをゆっくりと口にしている。

「一人旅ですか?」と声をかけられた。
「ええ、気分転換に一人で旅行したくなって。」

老婆は少し微笑んだ。
「そう。私はね、五年前に亡くした夫が好きだったこの場所に、
毎年この時期に来るの。」

その言葉に、真奈の胸の奥が静かに揺れた。
形の違う別れを経験した二人が、
同じ時間、同じ場所にいる。
偶然のようで、どこか必然のようにも思えた。

「この景色を見るとね、やっと一年がめぐった気がするのよ。」
老婆の横顔は穏やかで、痛みの奥にある強さを湛えていた。

きっとこの人も、愛する人の記憶をこの地に置いているのだろう。
そして、置くことで少しずつ整えてきたのだ。

その夜、部屋に戻ってから、窓の外の海を見た。
遠くに灯台の光が小さく瞬いている。
私は深呼吸をして、心の中で小さく呟いた。

「私も、私の記憶をここに置いていこう。」


二日目。
街歩きの途中で、小さなアトリエの看板が目にとまった。
「オリジナル香水づくり体験」。
ふと足が止まり、ドアを押した。

中は柔らかな光で満たされていて、棚には色とりどりの瓶が並んでいる。
店主の女性が穏やかな笑顔で出迎えた。

「今日はどんな香りを作りたいですか?」
「……落ち着く香りがいいです。」

ラベンダー、ベルガモット、ウッド、ホワイトティー。
どれも静かな余韻を残す香りだった。
ビーカーに少しずつ滴を垂らしていくたびに、
記憶の断片が音もなく混ざり合っていく。

「すごく優しい香りになりましたね。」
店主の言葉に、真奈は微笑んだ。
瓶の中に、
今の自分の“静かな強さ”が閉じ込められたような気がした。

「素敵な香りですよ。
この香りに名前を付けてみてはいかがでしょうか?」

真奈は少し考えてから、答えた。
「……《澄の途(すみのと)》」

「素敵な名前ですね。
この香水は世界にひとつだけ。どうぞ、楽しんでくださいね。」

瓶を両手で包むと、
ほんのりと温もりが伝わってきた。
“この香りも、今の私も、この瞬間だけのもの。”

未来の私が、
「あのとき現実を知ることができてよかった。
自分を整えてよかった。」
そう思えるように、私は生きていきたい。

──この香水を使い切ったら、またここで新しい香りを作ろう。

外に出ると、海風が頬を撫でた。
空は少しだけ明るく、遠くで波の音が一定のリズムを刻んでいた。

バッグの中の小瓶を指でなぞる。
その香りを嗅ぐと、胸の奥が少しあたたかくなった。

帰りの電車の窓に映る自分の姿は、
どこか軽やかに見えた。
完璧に立ち直ったわけじゃない。
でも、ちゃんと前を向けている。

ふと、車窓の外に光が差し込んだ。
それは、遠くの海面に反射した太陽の光。
まぶしくて、目を細めた。

──あの光は、私の中にも届いている。

その瞬間、涙が静かにこぼれた。
それは悲しみではなく、“いまを生きている”実感が溢れた涙だった。


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