愛した過去が私の未来を形づくる【#6】─言葉を渡す人になるまで─

愛した過去が私の未来を形づくる【#6】─言葉を渡す人になるまで─

朝のオフィスに、コーヒーの香りが静かに漂っていた。
千紗はプレゼン資料の最終チェックをしている。
今日の午後、社内向けのセミナーがある。テーマは「これからの暮らしを自分で描く」。
FP資格を取ってから初めて、人の前に立って話す日だった。

隣のデスクから、少し緊張した声が聞こえた。

「千紗さん、このグラフ、もう少し色を変えたほうが見やすいですかね?」

顔を上げると、若い男性社員が資料を手にこちらを見ている。
真面目で一生懸命
──どこか、数年前の自分を思い出させる姿だった。

「うん、いいと思う。でも、見る人が“どう感じるか”を意識すると、もっと伝わるかも。」

そう言いながら、千紗は彼の画面を覗き込み、少しだけ角度を調整して見せた。

「ここ、色の温度を少し下げるだけで印象が落ち着くよ。」
「……なるほど、ありがとうございます!」

彼の顔がぱっと明るくなる。
その瞬間、千紗はふと、かつて悠真に教わった日のことを思い出した。

──“細かいことを直すより、考え方を整える方が大事だよ。”

あの言葉が、今も自分の中で生きている。
気づけば、自分も誰かの背中を押す立場になっていた。

「よし、午後も頑張ろうか。」

千紗がそう言うと、彼は「はい!」と笑顔で返した。

その笑顔を見つめながら、千紗の胸にあたたかな感情が広がる。
──ああ、私、あの人みたいになりたかったんだ。
その気づきに、自然と微笑みがこぼれた。


午後の会議室には、春の光が斜めに差し込んでいた。
スクリーンに映るスライドのタイトルは「これからの暮らしを自分で描く」。
千紗は深呼吸をひとつして、マイクを手に取る。
前列には後輩の姿。その隣には、かつての自分のように緊張した表情の女性社員が座っていた。

「皆さん、“理想の暮らし”と聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?」

ゆっくりと問いかける。
会場に静かな間が生まれ、数人がノートにペンを走らせる音が響く。

千紗はスライドをめくりながら、自分自身の過去を重ねていた。
迷い、泣き、誰かの言葉に救われ、そしてようやく歩き出せた日々。
あの頃の自分に話すように、言葉を選んでいく。

「不安な気持ちも、焦る気持ちも、持っていていいと思います。
でも、今の自分が向いている方向を見失わなければ、
理想の未来は、きっと描ける。」

前列の女性が、静かに顔を上げた。
その瞳の奥に、少し前の自分が見えた気がした。

言葉が空間に溶けていく。
説明でも、説教でもない。
ただ、心の中で何かが確かに伝わった感覚があった。

セミナーが終わると、会場から拍手が湧いた。
後輩が小さく親指を立てて見せる。
千紗は微笑み返しながら、胸の奥で静かな熱を感じていた。

──“頑張ってるね”という言葉を、
 もう誰かに求めなくてもいい。
 自分の中から生まれるこの熱が、それに代わるものだから。


夜のオフィスを出ると、街の明かりが雨ににじんでいた。
ガラスの歩道に映る光が揺れて、まるで記憶の中の残像のように瞬いている。
千紗は傘を差しながら、今日のセミナーの光景を思い出していた。

「焦らなくていい。進む方向さえ見失わなければ──」
自分の口から出たその言葉が、ずっと胸に残っている。
それは、かつて悠真からかけられた言葉でもあり、
今の自分が、心から信じられる言葉でもあった。

帰宅すると、テーブルの上には開きっぱなしのノート。
あの“理想の未来”と書かれたページの隣に、
今日の出来事をそっと書き留める。

「後輩の笑顔に、昔の自分を見た。
あの頃の私は、誰かに支えられていた。
今は、誰かを支えることができている。」

文字にすると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その温度が、涙ではなく“希望”に変わっていく。

千紗はペンを止め、ノートを閉じた。
ページの中に積み重ねてきた時間が、
まるで一つの物語のように繋がっている気がした。

──愛した過去が、私の未来を形づくる。
 未来へ繋げられるかどうかは、私次第。

その言葉が、心の底からすっと溶けていく。
恋の痛みはもう、悲しみではない。
それは、生きる力に変わった“証”だった。

窓の外では、雨上がりの街に小さな月が浮かんでいる。
その光は、過去と未来のあいだに揺れる千紗を、
静かに包み込んでいた。


翌朝、千紗はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテン越しの光が部屋を満たし、空気の匂いに春の気配が混じっている。
湯を沸かしながら、机の上のノートと手帳を並べた。
いつものようにページを開くと、昨日書いた文字が目に入る。

「誰かを支えることで、自分も強くなれる。」

コーヒーの香りが広がる中、
窓辺の水耕栽培のバジルがまた少し背を伸ばしていた。
その小さな葉を見つめながら、
千紗はゆっくりと呼吸を整えた。

ふと、仕事で成長した後輩の笑顔が浮かぶ。
あの頃の自分が憧れた上司像を、
今、自分が少しずつ体現している。

──誰かの言葉で変わるのではなく、
 誰かに言葉を渡せる人になりたい。

そう思えるようになったことが、
何よりの成長だった。

ノートの新しいページを開き、
日付の下に一行だけ書く。

「今の自分が向いている方向を、見失わないように。」

その一文が、今日という一日の指針になる。
恋に迷った日も、涙に沈んだ夜も、
すべてが今の自分を形づくる欠片だった。

──愛した過去が、私の未来を形づくる。
 未来へ繋げられるかどうかは、私次第。

書き終えると、
千紗はコーヒーをひと口飲み、窓の外を見つめた。
街は動き始め、光が屋根を滑っていく。

「さあ、行こう。」

静かな声が部屋に響く。
それは決意でも、別れでもなく、
“始まり”に似た音だった。

窓辺のバジルが、朝の光を受けて淡く揺れる。
その緑が、千紗のこれからをそっと祝福していた。


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