愛した過去が私の未来を形づくる【#2】─沈黙の中で、涙を数える夜─

愛した過去が私の未来を形づくる【#2】─沈黙の中で、涙を数える夜─

街の灯りがちらつく夕方、千紗はタブレットを閉じた。
今日最後の商談を終えて、深く息を吐く。
保険の契約はまとまった。
数字的には悪くない一日。
でも、達成感よりも心の奥に小さな空洞があった。

駅へ向かう途中、同僚からのLINE通知が鳴る。
「明日の会議、資料ありがとう!」
その一言に「いえいえ!」と返し、
画面を閉じたあと、ふと無音になったスマホを見つめる。
──彼からの通知は、今日もない。

電車の中では、向かいの窓に自分の顔が映る。
表情はいつも通り。仕事中の“営業スマイル”がまだ残っている。
けれど、視線の奥にはどこか虚ろな影があった。
“成長した”と思えるような日々を過ごしているはずなのに、
心はまだ誰かの評価を探している。

マンションのエントランスを抜け、部屋に入る。
照明をひとつだけつけ、靴を脱いでコートを掛ける。
コンビニで買ったお茶をグラスに注ぎ、
冷たい口当たりに小さく息を吐いた。
ご飯を済ませ、洗い物を片づけて、
ようやくテーブルに置きっぱなしのノートを開く。

“理想の関係”と書かれたページ。
前に引いた蛍光ペンのラインが、
今日の疲れた目にはやけにまぶしく見えた。

──理想を押しつけない。
その一文を見つめながら、
千紗は少しだけ笑った。
「……これが、私の成長なのかな。」
声に出してみると、
ほんの少しだけ、過去の自分を許せた気がした。

でも次の瞬間、
“これを彼に伝えたい”という思いが湧き上がる。
今ならちゃんと謝れる気がする。

スマホを手に取って、メッセージ画面を開く。
「この前の私、ちょっと我儘だったと思う。いろいろ考えてみたの。」
……重いかもしれない。
「最近、少し考え方が変わった気がする。」
その一文に書き換えて、送信ボタンを押した。

既読がつくまでの数分が、やけに長い。
お茶を一口飲んで、
テーブルの木目を指でなぞる。
数時間後、スマホが震えた。

“成長したね。”
──たった五文字。

その言葉を見た瞬間、
胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……じゃあ、デートくらい誘ってよ。」
思わずつぶやいて、自分で笑う。
もう期待なんてしていないと思っていたのに。
その一言だけで、心の奥に灯りがともる。

窓の外、街灯の光が滲んで見えた。
その明るさが、少しだけ近く感じた。


午前中の外回りを終えて、オフィスに戻ると、
デスクの上には未処理の契約書類が山になっていた。
電話が鳴り、同僚が新人の相談に追われている。
保険の数字も、案件の進捗も、誰かの人生を預かる重みも、
全部が“ちゃんと働く自分”を証明するための毎日だった。

それでも、書類の隙間にちらつくスマホの通知が気になって仕方ない。
昨夜の“成長したね”が、心の奥で何度も再生される。
あの言葉の裏には、どんな気持ちが隠れているのだろう。

昼休み、カフェに逃げるようにして外に出た。
カウンターの隅の席。
カップの中で、ミルクがゆっくりとコーヒーに溶けていく。
その様子を見つめながら、
千紗は再び占いアプリを開いた。

こんにちは。またお願いしてもいいですか?

受話口の向こうから、落ち着いた声が返ってくる。

もちろんです。お久しぶりですね。今日はどんなご相談でしょう?

昨日、彼からメッセージが来たんです。“成長したね”って。

そこまで言って、少し息を止めた。

……成長したと思ってるなら、デートくらい誘ってくれてもいいのに、って思っちゃって。

小さな沈黙。
その間に、店内のBGMが耳に届く。
ゆるやかなジャズのリズムが、少しだけ切なく聞こえた。

千紗さん。

やわらかな声が響く。

あなたがご自身の気持ちと向き合えたことは、本当に素敵です。
でも、彼は今、恋を再開させる段階にはいないようです。

千紗はストローを回しながら、カップの底を見つめた。

……脈がないってことですか?

そういうことではありません。
彼はあなたの変化を“安心”として受け取っています。
ただ、それは“また恋を始めたい”という意味とは違うんです。

“安心”。
その言葉を口の中で転がすように、千紗は小さくつぶやく。
「……安心、か。」
自分が誰かに安心を与える存在になったことは、
悪いことじゃないはず。
でも、少しだけ寂しかった。

未来は変わります。
けれど今の彼には、あなたの成長を受け取る“余白”がありません。
だからこそ、あなたの理想を、彼とは切り離して見つめてください。

理想の未来……

占い師の声が遠く感じた。
理解したつもりで、心はまだ理解していない。
通話を終えると、カフェの外の光がやけにまぶしかった。
歩道を行き交う人々の中で、
千紗だけが少し立ち止まっていた。

胸の奥に、確かに“現実”の言葉が残ったはずなのに、
心のどこかではまだ、
あの五文字──
“成長したね”を信じていた。


午後の会議が終わり、千紗は資料を片づけながらため息をついた。
ふと、手帳の端に貼ったメモが目に入る。
「来期目標:資格勉強の補助制度について」
数か月前に同僚が話していた内容だ。

“ファイナンシャルプランナー。お金と人生設計を考える仕事。”
その言葉が、昼の光に照らされて浮かび上がる。

──人生設計。
思わず笑ってしまう。
人の人生どころか、自分の未来すらままならないのに。

それでも、何かが引っかかった。
“彼に言われた成長”を、自分でも信じたい。
資格を取れば、もっと胸を張って生きられるかもしれない。
そんな淡い期待を抱えたまま、定時を迎えた。

帰宅後、湯気の立つカップをテーブルに置き、
ノートを開く。
“理想の未来”と書かれたページ。
その言葉の意味を、もう一度考えてみた。

「理想の未来か……」
小さくつぶやきながら、ペンを持つ手が止まる。
彼のいない未来を思い描くのは、やっぱり少し怖かった。
でも、資格を取った自分なら──
少しは、誰かの役に立てるかもしれない。

保険の提案だけじゃなく、
お客様の“これから”を一緒に描ける仕事。
その姿を想像すると、胸の奥がほんのり温かくなった。
「自分の将来設計にも、きっと役に立つよね。」
思わず声に出して笑う。
「資格手当……あったっけ?」
そんな現実的な考えが浮かぶのも、なんだか悪くなかった。

ノートの端を閉じ、スマホを手に取る。
通信講座のサイトを開き、指先が申し込みボタンの上で止まった。
──これは、彼に褒めてもらうためじゃない。
でも、きっと少しはそう思ってる。

「……まあ、いいか。」
つぶやきながら、指を動かした。
画面の中の光が、静かな部屋に反射する。

それは、誰かに見せるためではなく、
自分がもう一度“生きる未来”を選んだ瞬間だった。


週末の夜。
リビングの照明を落とし、
千紗はパソコンの画面を閉じた。
FP講座の申込メールが届いてから、三日が経つ。
教材の発送案内が届いたとき、
少しだけ胸が高鳴った。

新しいことを始めるのは、久しぶりだった。
“何かを頑張る自分”を取り戻せる気がした。
けれど、机の上に並べたノートや蛍光ペンを見つめていると、
どこかでまだ、彼の顔が浮かんでしまう。

“頑張ってるね”
あの言葉がまた脳裏に響く。
優しい言葉は、時に距離を保つためのものだと
わかっているのに。

スマホを手に取り、
メッセージ画面を開きかけて、やめた。
──何を送りたいんだろう。
“合格したら会おう”なんて言葉を期待してる自分が、
まだ心の奥にいる。

静かな部屋の中、
湯気の消えたマグカップを両手で包み込む。
“理想の未来”と書かれたノートのページをそっと開く。
その文字が、以前よりもやわらかく見えた。

「理想の未来」
それは、“彼ともう一度”という願いではなく、
“私がどう生きたいか”を見つけていく時間なのかもしれない。

窓の外には街灯の光。
その明かりの下を、誰かが足早に通り過ぎていく。
それぞれの夜に、それぞれの未来がある。
千紗も、そのひとつを生きている。

机の上のFP講座の案内書に目をやる。
講義日程、受講料、テキストの厚み。
どれも現実的で、どれも少し重たい。
でも、
その“重さ”が自分のものだと感じられることが、
少しうれしかった。

「……頑張ってみよう。」
声に出すと、思っていたよりも静かだった。
けれど、その静けさの中に、
小さな灯りのようなものがともる。

恋を取り戻すことより、
自分を取り戻すことのほうが、
ずっと時間がかかるのかもしれない。

それでもいい。
あの“成長したね”の一言を、
今度は自分自身に言えるようになりたい。

カーテンの隙間から差し込む月明かりが、
ノートの白いページを照らしていた。
その光は、
まだ形にならない未来への、静かな約束のようだった。


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