

夕方の空は、昼と夜のあいだで揺れていた。
オレンジがゆっくりと淡くなって、街の灯りが一つずつ点いていく。
彼と並んで歩く帰り道は、特別な場所ではない。
よく通る道で、景色も、店も、街の音も同じなのに、
今日はどこか違うように見えた。
「少し寒いね。」
彼がそう言って、歩く速度をほんの少しだけ緩める。
その変化に気づけた自分にも、気づいたことが嬉しかった。
昔の私は、
相手に合わせることが“正しさ”だと思っていた。
ついていくことが愛情で、
遠ざからないようにすることが安心だと信じていた。
でも今は、
ただ、同じ速度で歩けている。
追いかけていない。
置いていかれてもいない。
「並んで歩けるって、こんな感じなんだね。」
声に出したわけではなかったけれど、
胸の奥でそっとそう思った。
彼の横顔は、穏やかだった。
風が頬に触れて、髪が少し揺れる。
この歩幅は、意図して合わせたものじゃない。
いつの間にか、自然に、そうなっていた。
小さな変化の積み重ねで、
ようやく辿り着いた速度だった。
カフェの窓際の席は、いつもの場所だった。
大きなガラスの向こうで、薄い夕暮れが少しずつ夜に変わっていく。
カップから立ちのぼる湯気は、呼吸に似ていた。
吸うたびに、胸の奥がゆっくりあたたまる。
「まいちゃんさ、結婚するんだって。」
そう言ったとき、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
「家も買うんだって。
ちゃんとした未来を、ひとつずつ選んでいってるみたいで……すごいなって思った。」
彼は驚いた様子もなく、ただ静かに聞いていた。
「昔の私だったらさ、
“いいな、羨ましいな” で終わってたと思う。」
言葉は、するりと自然に落ちた。
気取ってもいないし、強がってもいない。
本当に、今の私の声だった。
「でも今はね、
“私がどうしたいか” を考えられるようになった。」
そう言ったあと、目を上げた。
彼は、まっすぐこちらを見ていた。
急かすでもなく、
受け止めようとするわけでもなく、
ただ、聞いていた。
「結婚は、焦ってない。
もしするとしても……“これだな”って、自然に思えたときがいい。」
「うん。」
短い返事は、なぜか十分だった。
「家も、そう。
誰かに合わせて決めるんじゃなくて、
二人で“ここがいいね”って思える場所を、いつか。」
そのとき初めて、
彼が少しだけ笑った。
「……そうだね。俺もそう思う。」
その笑い方は、未来を約束するものではなかった。
だけど、未来を閉ざすものでもなかった。
ちょうどいい温度。
ちょうどいい距離。
無理のない歩幅。
「じゃあさ。」
彼はそっとノートを開いた。
“今日のページ” の隣。
まだ何も書かれていない、まっさらな余白。
「ここに、置いておこうか。」
「置いておく……?」
「うん。
決めるんじゃなくて、置いておくだけ。
“いつか一緒に探す家”って。」
胸の奥に、あたたかいものがすこしだけ灯った。
未来を掴むんじゃなくて、
ただ、そっと置いておく。
それなら、こわくない。
「……うん。いいね。」
言葉にした瞬間、
その未来はまだ遠いのに、
たしかに“手触り”を持った。
ペン先が、白いページの端に止まった。
書く前の沈黙が、やさしかった。
ノートには、まだ一言も書かれていなかった。
ページの中央には、うっすらと光が差しているみたいな白さがあった。
「書くの、いまじゃなくていいよね。」
私はそう言いながら、ペンを持つ手を少しだけ迷わせた。
「うん。」
彼は、ノートの端を指先で押さえていた。
その力の加減が、どこまでも優しい。
「“決める”っていうより……」
私が言葉を探しているあいだ、彼は待っていた。
急かさない、塞がない、押しつけない沈黙。
沈黙にも、温度ってあるんだなと思った。
「……“置いておく”って感じ、かな。」
そう言うと、彼は静かに笑った。
それは賛成でも、理解でもなくて、
ただ、同じ景色を見ている人の笑いだった。
「じゃあ、“タイトル”だけにする?」
「タイトル?」
「うん。
中身は、これからでいいから。」
私はうなずいた。
未来に触れるには、それくらいがちょうどいい。
ペン先が、白い紙の上にそっと触れた。
強く書きすぎないように、でも消えないくらいの力で。
ゆっくりと、文字が浮かび上がる。
“いつか一緒に探す家”
ただ、それだけ。
日付も、場所も、間取りも、何も決めていない。
けれど、この言葉があるだけで、
未来は、なくならない。
「……なんかさ。」
彼がページを見つめたまま言った。
「“約束”より、こっちの方が好き。」
「うん。私も。」
約束は、叶わなかったときに痛む。
でも、“置いておく未来”は、
育つのを待てる。
今はまだ描かない。
無理に形にしない。
ただ、ここに残しておく。
二人が、同じ歩幅で進める日が来るまで。
ノートを閉じると、
ページの中に灯りが残った気がした。
それは強い光じゃなくて、
小さくて、消えにくい灯り。
名前のない、やさしい未来だった。
ここまで読んでくれたあなたへ。
私はずっと、
「愛されるために、うまくやらなきゃ」と思っていました。
相手に合わせることが優しさで、
都合を飲み込むことが思いやりで、
我慢することが“好き”の証だと信じていました。
でも本当は、ただ怖かっただけなんだと思います。
失うことが。
大切だと認めることが。
だからね、
もし今、あなたが苦しいなら、
その苦しさは “ちゃんと大切に思っている証拠” です。
弱さじゃない。
足りなさでもない。
愛せているということ。
私は少しずつ、
自分の時間を取り戻していきました。
ネイルサロンの予約を入れた日。
自分の都合を伝えられた日。
お弁当を作った夜。
手紙を渡した帰り道。
どれも小さくて、頼りなくて、
すぐに変わったわけじゃないけれど──
それでも、私の中にちゃんと灯りが残りました。
あなたにも、きっとあります。
まだ小さくても、まだ形にならなくても。
もし今、心が痛んでいるなら、
それは 恋があなたの中で生きている証 です。
だからどうか、
“自分を後回しにする恋” だけは続けなくていい。
あなたの気持ちも、
あなたの時間も、
誰かのためだけに消えてしまわなくていい。
ゆっくりでいい。
迷いながらでいい。
止まってもいい。
ただ、あなた自身を置き去りにしないで。
あなたの中にも、
ちゃんと灯りはあるから。
私は、それを信じています。





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