
昼休み、社内カフェの窓際。
薄いカーテン越しの光がテーブルに落ちていて、
その上で私の指先のローズ色が静かに透けていた。
「今週、時間あったら会えない?」
スマホにそう打ち込んだ瞬間、
心臓の奥が、そっとくすぐったくなる。
“会いたい” をそのまま言うのは、
なんだか少し照れくさくて。
でも
“会えたらいいな” って、
相手の都合を大切にできる言葉なら、
今の私にしっくり馴染む気がした。
送信。
ほんの少し、息を止める。
数分して、通知。
「いいよ。土曜の夕方なら空いてる。」
画面を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
素直に嬉しい。
この恋はちゃんと、ここにある。
窓から差し込む光に、
桜色の指先がまたふわりと染まる。
「……よかった。」
言葉に出したら、思ったより優しい声になっていた。
けれど。
その嬉しさの端っこに、
小さな影がちょこんと座っていた。
“誘ったのは、今日も私だ。”
それは重たいものじゃない。
責める気持ちでもない。
ただ、
「好き」と「少しの寂しさ」が同じ場所に並んでいる感じ。
会えるところまでちゃんと繋がっているのに、
いつも、その一歩目を踏み出すのが私側。
そのことに気づいただけ。
それだけ、のはずなのに。
胸の奥が静かに揺れる。
まいちゃんが、向かいでストローを噛みながら言った。
「ねえ芽依、なんか今日の誘い、いい感じだったね。」
「うん、自分でもそう思った。」
「“無理してる感”じゃなくて、“ちゃんと会いたい人の誘い方”って感じ。」
「……そうだといいなぁ。」
まいちゃんは笑って、私の指先を見た。
「その色、似合ってるよ。
芽依の“落ち着きたいところ”に合ってる色。」
胸の奥が、すこしだけほどけた。
会社に戻る途中、歩きながら思う。
会えることは、嬉しい。
ちゃんと好き。
その気持ちに迷いはない。
だからこそ、
“いつも私から” が胸に触れてくる。
この寂しさは、
彼が悪いとか、私が間違ってるとか、
そういう話じゃない。
ただ、
“もっと大切にしたいもの”が、心に生まれただけ。
それを、どう扱えばいいのか。
まだよくわからない。
だから、考えたい。
そう思った。
夜。
部屋の灯りは少し暗めにして、いつものマグカップにお湯を注ぐ。
湯気が上がる。
深呼吸も、自然にできる。
スマホを手に取る。
迷いはなかった。
私は、今日は「考えたい」日だ。
通話アプリの画面を開く。
占い師さんの名前に指を置いた瞬間、
胸の奥がふっと静かになった。
あの人と話せば、私はまたちゃんと自分に戻れる。
発信ボタンを押した。
音が鳴る。
呼吸が深く落ちていく。
ここから、私の心の話が始まる。
通話の待ち音が消え、
あのやわらかい声が耳に触れた。

芽衣さん、こんばんは。今日もよく来てくれましたね。
その声に触れた瞬間、
胸の奥に張りついていた薄い膜が、
ゆっくりほどけていくのが分かる。
……聞いてほしいことがあって。
言葉は自然に出てきた。
私は今日のことを話した。
自分から誘ったこと。
会えることが嬉しかったこと。
そして、少しだけ寂しかったこと。
言いながら、自分でも驚いた。
泣きそうではない。
ただ、ちゃんと“話している”感じがした。
占い師さんは、急かさず、間を尊重してくれた。



芽衣さん。
あなたはね、“誰かの時間に合わせてきた人”なんです。
胸の奥がそっと揺れた。



合わせることは、優しさでもある。
そして、それは恋を育てることでもあるんです。
否定ではなく、
肯定から始まる声。



ただね、芽衣さん。
その優しさの中に、あなた自身がいなかったとしたら……
それは、少し苦しくなりますよね。
苦しい、という言葉に、
胸の奥が静かに反応した。
……うん。少し、苦しかった。



芽衣さんが今日感じた“寂しさ”は、
“もっとこうありたい”という 芽 なんです。
寂しさは、足りない証拠じゃない。
望みが生まれた証。
その言葉は、
説明じゃなくて、
胸にそっと置かれた灯りのように響いた。



彼は、芽衣さんに甘えています。
でも、それは依存ではありません。
安心しているから 甘えられるんです。
安心……



はい。
芽衣さんは、“誘ってくれる人”でいてくれると
彼は信じているんです。
それは思っていたより、ずっとやさしい理由だった。



安心は、信頼の一部です。
でも、同じ形のままでは楽になれないこともある。
だから、少しずつ“あなたの時間”を見せてあげてください。
私は息を吸う。
ゆっくり、深く。
じゃあ……どうしたらいいんでしょう。
占い師さんは、ゆっくり微笑むように言った。



“私がどうしたいか”を書き出しましょう。
彼ではなく、あなたの願いを。
願い……



芽衣さんの中には、もうありますよ。
ただ、言葉になる手前にあるだけ。
胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
書いてみます。
ちゃんと、考えてみます。



ええ。大丈夫。
芽衣さんは、もう自分の場所に戻り始めていますよ。
通話を切ると、
部屋の空気がさっきより柔らかかった。
私は、ノートを開いた。
まだうまくは書けないかもしれない。
でも、
私の心の中心に触れてみようと思えた。
それだけで、今日は十分だった。
部屋の灯りを少し落として、
机の上にノートを開いた。
カレンダーじゃなくて、
メッセージアプリでもなくて、
この白い紙の上に、
私の気持ちだけが置かれる場所。
ペン先が紙に触れる音が、
すこし心地よく感じる。
【私がしたいこと】
一行目にそう書いて、
しばらく手を止めた。
なにを書けばいいか分からなくて止まっているわけじゃない。
ただ、今の私の気持ちを
ちゃんと味わいたかった。
胸の奥に、
小さな灯りがある。
それは、強くはない。
でも、消えそうでもない。
淡くて、優しい灯り。
その灯りの近くにある言葉だけを、
そっと、拾って並べていく。
- 日曜の朝、ゆっくり散歩したい
- 自分の好きな映画を誰かと共有したい
- 待つ時間に心を全部持っていかれない毎日がいい
- 笑う瞬間を、自分でも選べる私でいたい
書いてみて思った。
これらは全部、
“彼の行動”と関係がない。
私が、私と生きたい日常。
そのことに気づいた瞬間、
胸の奥がすうっと深く息を吸った。
“あ、私、ちゃんとここに戻ってきてる。”
そんな感覚がした。
湯気の落ち着いたマグを両手で包んでいると、
スマホが短く震えた。
彼から。
「来週も会いたいんだけど、
芽衣はいつなら空いてる?」
少しだけ、世界が静かになった。
“いつなら大丈夫?” じゃない。
“芽衣はいつがいい?” と聞いてくれた。
それだけで、胸があたたかくなった。
でも私は、すぐには返事をしなかった。
カレンダーを見る前に、呼吸をひとつ。
そして、ゆっくり予定表を開く。
金曜の夜は、まいちゃんと映画。
日曜の朝は散歩。
空いているのは、月曜の夕方。
「金曜はもう予定があって、
月曜の夕方なら、空いてるよ。」
送信。
数秒で既読。
「じゃあ月曜にしよう。
どこ行きたいか、芽衣が決めて。」
深く、静かに、息が落ちる。
これは “彼が変わった” 物語じゃない。
“私が、自分の中心に戻ってきた” 物語。
それだけで、今夜は満ちていた。
スマホを置いたあと、
しばらく静かに座っていた。
月曜の夕方、と返したのは、
「その日なら動ける」じゃなくて、
「その日が、今の私にとって余白のある日だから」 だった。
ふと、気づく。
今日の私は、
“彼の予定に合わせる”んじゃなくて、
“私の生活の中に、彼との時間を置いた” のだ。
その違いは、言葉にすれば小さなことかもしれない。
でも、その小さな違いが、
胸の奥では、確かに別の灯りになっている。
そしてもうひとつ、気づいたことがある。
彼が「いつなら空いてる?」と聞いてくれたのは、
きっと、今日の私の誘い方が変わったからだ。
“会ってほしい” ではなく、
“私はこの日を大切にしている。あなたと過ごせたら嬉しい”
という、さりげない輪郭のある誘い方。
その“輪郭”が、
彼に伝わったんだと思う。
彼の心が変わった、というよりーー
私の立ち位置が、そっと変わった。
だから、会い方も変わり始めた。
私はノートをもう一度開いて、
一行だけ書き足した。
【私が灯した灯りに、彼がゆっくり気づいた日】
書いた瞬間、
胸の奥がやわらかく満ちていく。
これは、勝ったとか、戻ったとか、
そういう話じゃない。
ただ、
私の時間の中心には、ちゃんと私がいる。
その実感だけが、
今日のすべてだった。















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