仕事を終えて家に帰ると、部屋の時計は22時を過ぎていた。
外は少しだけ雨の音。
鞄をソファの上に放り出し、そのまま冷蔵庫を開けてペットボトルの水を一口。
スマホの画面を覗く。
今日も──
既読はついていない。
SNSには、彼の投稿が上がっていた。
仲間とテニスをしている写真。笑顔。
「楽しそうじゃん」って思うのと同時に、胸の奥が少しだけ重たくなる。
「返信する時間くらいあるでしょ」と、心の中で小さくつぶやく。
その言葉が虚しく響いて、ため息が一つ、こぼれた。
冷めた味噌汁を温め直しながら、
コンロの火を見つめていると、どうしても思考が戻ってくる。
“あの人にとって、私は何なんだろう”
送信履歴をスクロールすると、最後のやり取りからもう一週間。
仕事が忙しいのかもしれない。
でもSNSでは楽しそうにしてる。
それを見るたび、心の中で何かがザワザワと音を立てる。
「もう一度だけ送ってみようか」
「いや、重いと思われるかも」
思考の往復を何度繰り返しただろう。
結局その夜は、メッセージを打っては消して、また打っては消して、
時計の針だけが進んでいった。
机の端に置いてある雑誌を見て、ふとページをめくる。
そこに小さく載っていた広告──
“電話占い・恋愛相談”
昔なら迷わずスルーしていたのに、
今夜だけは、その小さな文字が妙にまぶしく見えた。
夜風がカーテンを揺らすころ、私はスマホを手に取った。
画面越しに響く声は、柔らかく、どこか懐かしい。

こんばんは。今日は、どんなことが気になっていますか?
彼から連絡がなくて……。
SNSでは楽しそうなのに、私には何もないんです。
沈黙が少し続いて、占い師の声が優しく重なった。



彼は、まだあなたのことを“見極めている段階”に見えますね。
……見極めてる?
思わず、声が裏返る。



あなたに興味はあります。
でも、まだ“安心して近づけるか”を探っているようです。
SNSが見えているなら、彼の好きなことを少し学んでみてください。
相手を理解しようとする過程で、あなたの気持ちも整理されていきます。
その言葉を聞いた瞬間、
何かを責めるように固まっていた心が、少しだけほどけた気がした。
翌日、昼休みに彼のSNSを見返してみた。
そこには、いつも“テニス”の写真。
白いウェア、仲間の笑顔、光る汗。
テニスが好きなんだ、とは思っていたけれど、
今まで深く見ようとはしなかった。
検索窓に“初心者 テニス スクール”と打ち込み、
週末の体験レッスンに申し込んだ。
最初の1時間は散々だった。
ボールは空を切り、ラケットはうまく振れない。
コーチに「力抜いて」と言われても、全身が硬い。
でも──
ボールを打ち返せた瞬間、
心の奥で何かが弾けるように軽くなった。
「楽しいかも」
その言葉が自然に口をついて出た。
汗を拭きながら、空を見上げる。
夏の名残を残した夕暮れが、オレンジ色に滲んでいた。
帰り道、コンビニの自販機でスポーツドリンクを買ってベンチに腰掛ける。
風が頬を撫で、スマホの画面に映る自分の顔が少しだけ柔らかかった。
数日後、スクールの掲示板に「地域サークルから参加希望あり」と書かれていた。
そこに並ぶ名前の中に──
彼の名前があった。
思わず手が止まる。
まるで運命のいたずらみたいだ。
「どうしよう」
胸の奥がドクドクと音を立てる。
その週末、コートに立つと、
彼が少し驚いたように笑って手を振った。
「まさか来てたんだ!」
思わず、「うん、最近始めたの」と笑い返した。
緊張で手汗が止まらなかったけれど、
その瞬間──
少しだけ、世界が広く見えた気がした。
ラリーを重ねるうちに、
彼がどれほどテニスを楽しんでいるかが伝わってきた。
その姿を見ているだけで、不思議と不安が薄れていく。
「返信がない」ことに縛られていた私は、
“会話を待つ人”から、“風を感じる人”になっていた。
彼に近づくための行動が、
いつのまにか、自分を取り戻すきっかけになっていた。
夜、帰宅してスマホを手に取る。
相変わらず彼からのメッセージはない。
でも──
テニスの疲れで、体が心地よく重い。
ベッドに横になりながら、
画面に映る自分の笑顔をもう一度見た。
「返信がなくても、私の時間は止まらない。」
目を閉じると、
風の音とボールの弾む音が、
静かに心の中で響いていた。
















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